【車屋四六】片山豊-2

コラム・特集 車屋四六

アメリカ自動車殿堂入りした片山さんの、自動車への情熱は素晴らしいもので、あちらこちらで活躍の足跡を残している。

たとえば「そろそろ日本にも自動車ショーがあっても良い頃だ」と推進したのが片山さん。そのせいかどうかは知らないが、ショーのシンボルマークの大きな車輪を力強く押すギリシャの戦士、あれは片山さんがモデルのようだともっぱらの噂。

JAFのスポーツ委員長としての活躍は知る人ぞ知るだが、いずれはJAF会長とまで噂されていた。それが実現しなかったのは、アメリカ日産行きが決まったからのようだ。
アメリカ行きとならりゃ誰もが栄転と思うだろうが、トヨタも休眠状態の難しいアメリカ市場へ出せば、車は売れず、自主的に退職するだろうというのが、本社首脳部の考えだったようだ。
が、粉骨砕身努力の結果、アメリカでの成功は前回報告の通り。

片山さんは過酷な豪州一周モービルトライアル参加も企画。ダットサンにドライバーはSCCJ会員を予定したが、労働組合の横やりで実験部員でということになったそうだ。
タクシーが日本の悪路で鍛えた頑丈な車に自信を持つ片山さんは「飛ばすな追い越すな」と指示。で、完走の結果はクラス優勝。
「日本の車優勝」と世界に大穴を発信したロイター通信で、東洋の名もない乗用車、ダットサンの名が世界に知れ渡った。

東洋の名もないダットサンを一躍有名にしたクラス優勝のダットサン

慶応義塾自動車部の大先輩、片山さんは日本のモータリゼーション発展に貢献したことで知られる。戦後SCCJ/日本スポーツカークラブ創設のメンバーは、進駐軍の偉いさん達が多かった。
戦勝国の泣く子も黙る進駐軍将校が片山さんの指図で働いている、何か不思議さを感じる存在だった。

やがて朝鮮戦争一段落で米軍将校が帰国すると、SCCJは休眠状態になるが、今度は日本人主体のSCCJを立ち上げる。その中心にも、片山さんが居た。

その後JAFのスポーツ委員長は、前述したようにアメリカ派遣で退職。予想したアメリカでの不遇時代も、孤軍奮闘で日産車が売れ出せば日産も仕方なく、アメリカ日産社長の椅子を与えた。

ダットサンからブルーバードへ、着々と売れ出すと、スポーツカーの虫が目を覚まし、フェアレディーが米本土上陸。そして真打ちとばかりに、フェアレディー240Zが上陸する。
Zはツーリングカーとして、またレースで活躍しながら、欧州の名門を追い詰めていった。勢いに乗る片山さんは、そのZを100万台も売ってしまった。
で、彼等が付けた言葉が{Zの父}正しくはファーザー・オブザ・Zカー。片山さんは、アメリカで著名なオジサンさんになった。

第一回日本GPに日産は関心がなかったが、ダットサンクラブの田原源一郎がフェアレディー1500で出場を決めると、アメリカからスポーツキットを送り応援した。
田原は、並いる欧米勢をブッちぎり、終始独走、優勝した。

片山さんの業績は枚挙にいとまがない。日本自動車産業発展の功労者なのに、何故か日産は冷たい扱いを続けている。手元のブ厚い三冊の日産社史に、片山さんの名はみつからない。
なのに片山さんは日産を愛し続けている。そしてダットサンというブランドの扱いが冷ややかなのを嘆いている。
「長い年月と宣伝費を掛け育てたブランドは掛け替えのないもの」大切に育て続けるべき、というのが持論。アメリカで、フェアレディー、ブルーバードも含めて、日産全車をダットサンに統一し育て片山さん、内心さぞかし悔しいのではなかろうか。

昭和30年頃のJAA江ノ島ラリーでドライバーズミーティング中の若き日の片山さん