【車屋四六】片山豊-1

コラム・特集 車屋四六

ミスター、ダットサンと呼びたい人が居る。
アメリカではミスターKでとうり、またの名をファーザー・オブ・Zカー(Zの父)と呼ぶように、フェアレディーZを、アメリカで100万台も売った偉大な功績の持ち主である。

その名は片山豊(写真上)。敬愛する我々はオトツァンと呼び慕っている。
1909年生まれ、100才を超えてなお元気。昭和の生んだ偉人は、平成になり良い意味での怪物的存在となった。

日本で片山さんのファンは多くはないが、アメリカでの知名度は抜群で、自動車クラブの{Zカークラブ}には数万人の会員が居ると聞いている。

ミスター、ゴーンが日産社長になって、Zをアメリカに再輸出するにあたり、知名度が高いミスターKをTVコマーシャルに、ということは、アメリカ市場に大きな影響力を持つ人物だからだ。

日本で認識度が低くアメリカでは高い片山さん、論より証拠というが、98年10月にアメリカ自動車殿堂入りという栄誉に輝いた。本田宗一郎や豊田英二などと並んで、日本人では四人目。同じ年に殿堂入りしたのは、アンドレ・シトロエンやツェッペリン伯爵、オペル5兄弟など世界的名士達である。
殿堂では先輩のフォードやポルシェ、エジソンと並んだのだ。

もし太平洋戦争がなかったら、日産社長になっていただろう、と云う人もたくさん居る。日産コンツェルンの総帥鮎川義助と姻戚関係もあり、鮎川義助の意図もそこにあったと思われる。

そんな片山さんが、慶應義塾を卒業して日産に入ったのは35年/昭和10年のこと。ちょうどダットソンがダットサンと名を改めて量産販売を始める頃だから、ここで片山さんとダットサンとの長い付き合いが始まるのである。

日産には販売促進をするミス・フェアレディーと呼ぶ美女軍団が居る。その源流をたどれば片山さんにたどりつくようだ。
昭和10年代、女学校出のダットサンガールという美女達が居た。女学校には貧乏家庭の娘は居ないから、戦前に良家の娘を職業に就かせるのは、とてもむずかしかったことだろう。

そんな娘達とは別に、プロも起用する。水之江滝子、夏川静江、入江たか子、轟夕紀子など、当時飛ぶ鳥を落とすいきおいのスター女優、昭和の名優達である。

一世風靡男装の麗人水之江滝子とダットサン。松竹歌劇団で断髪男装は日本初/愛称ターキー/日活映画で活躍/20~30年代の国民的アイドル/戦後は映画の名プロデューサー

さて、戦争で中断されていた乗用車生産再開は42年のこと。
小型車では戦前トップ日産はダットサンでいち早く戦線復帰したが、当時の日本は敗戦貧乏のさなかだった。

片山さんの持論に「自動車メーカーには儲からなくてもスポーツカーが必要」というのがある。ようはイメージアップということなのだろう。

52年、ダットサンスポーツDC3を完成発売する。戦前からのダットサンがベースだから、我々憧れのMGに似た姿が魅力的だったが、性能の方はイマイチで、54年までに50台が生産された。

自動車評家金子昭三の新聞社時代。江ノ島背景のダットサンスポーツDC3

話変わって、55年にF/F=フライングフェザーと呼ぶ、二座席乗用車登場。ダットサンのボディーを造る、専務が日産出身の富谷龍一主導の開発は表向きで、片山さんのアイディアだったというのが、もっぱらの噂である。
F/Fは、軽量化目的であまりに簡素化された姿と機能が理解されず生産48台で終わったが、シトロエン2CV的発想だけに、日本だからこそ不人気に終わった車と云えよう。素晴らしい車だったが。

実行力があり、はっきりと物言う片山さん、戦後の銀行から来た経営者とはウマが合わなかったようで、社内では徐々に敬遠されていったようである。が、日本のモータースポーツでは育ての親的存在、という話しは次回に。