片山豊と米国自動車殿堂

all コラム・特集 車屋四六

カー&レジャーwebサイトで度々登場する片山豊…その取り巻き連中は「オトッツァン」と呼び勝手に子分と決めている。その子分の筆頭は佐藤健司=通称ケン坊。慶応自動車部戦後の後輩と戦前の大先輩、誰が見ても生涯親分子分という風情だった。

ケン坊は、WWⅡ後の進駐軍主体のSCCJ/日本スポーツカークラブを片山さんと共に日本人主体に改組織したり、JAFスポーツ委員、日本カーオブザイヤー、RJCカーオブザイヤー選考委員と、日本自動車界で活躍した浅草生まれの江戸っ子だった。

オトッツァンは1998年に米国自動車殿堂に顕彰された。
御承知のように米国は、WWⅡを挟み20世紀半ば過ぎまで自動車生産では世界トップの自動車大国。そのミシガン州デトロイトに在る殿堂は、1939年に創設された自動車と自動車産業に関わる博物館で、世界の名だたる顔ぶれが顕彰されている。

米国自動車殿堂のトロフィー。

自動車業界人にとって、殿堂入りはこよなく名誉なことで、その顔ぶれは世界的著名人ばかり…H.フォード、トーマスエジソン、ベンツ、ダイムラー、クライスラー、ポルシェ、ダンロップ、フェラーリ、オペル兄弟、シトロエン、ディーゼル、ツェッペリン伯爵、ブガッティ等々…。日本人では、本田宗一郎、豊田英二、田口玄一、そして片山豊が四人目の快挙だった。その後、梁瀬次郎、石橋正二郎、豊田章一郎、豊田喜一郎なども。

米国での片山豊はカタヤマではなくミスターK。いずれにしてもカリスマ経営者と認知するのは米国の日産車ファンだけではない、米国自動車業界では知る人ぞ知る存在なのだ。

日産退職後、米国を飛行中「ミスターKじゃないですか」と紳士に声を掛けられた、とは隣座席のケン坊の話し。で、デトロイトで立派な夕食を御馳走になったが、その紳士はGMの重役で日産退職を承知での招待、話題は業界に関する意見交換だったそうだ。

片山さんの殿堂入りは、日本車を沢山売ったからではない。
米国の自動車業界に良い意味での刺激を与え、貢献したのが認められたからだと云われている。

片山夫妻に挨拶する当時の日産広報部長。

さて、米国での販売店の看板には、充実した販売網、それに付随する修理工場など大きな資本と銀行などの信用が必要。それをメーカーは常に上から目線で審査し、販売権を与える。だから中古車販売業や街の修理工場などが望んでも、販売店の看板を上げることは雲を掴む話なのだそうだ。

それを逆手にとった片山さんは、高嶺の花と諦めた小さな店に「うちの看板揚げないか・ノルマなしだからノンビリ売ればいい・売れたら金を払ってくれ」と説いて廻ったのである。

実は片山さんの米国行きは、トヨタの米国法人も休眠に追い込まれた日本車不況市場の開拓ではない、はっきり言えば左遷、いや不況市場に追いやれば勝手に辞めてくれるだろう、が日産上層部の思惑だったようだ。

愚痴をこぼさず、悪口を云わず、終生日産が好きで、ダットサンを愛し続けたオトッツァン、いつもニコニコ笑ってはいたが、時々本音と思われる話をこぼれ聞くことがあった…そんな話も次回から紹介しようと思う。

1999年1月、RJC(日本自動車研究者ジャーナリスト会議)主催・片山豊受賞記念パーティーで公演中のオトッツァン。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged