鮎川義助と日産の乗用車

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鮎川義助を知る人も少なくなった。明治13年山口生、東京帝大卒、明治43年戸畑鋳物社長、昭和3年日本産業創業…一代にして日本を代表する日産コンツェルンを築き上げた偉人である。
その一環で日本に乗用車産業が必要と日産自動車を創業する。

「我が国の乗用車の大半は外国車だが国家経済・国防を考えると自国製が必要/が年500台1000台では価格競争で外国に勝てない/1万台以上造る必要あり/1万台でも数年は赤字だろうが持ちこたえれば軌道にのるはず/が赤字の会社に投資はなく銀行融資もない/が、利益ある会社を多数抱えるコンツェルンなら赤字の数年を持ちこたえられる/ということで日産自動車を創業」というのが鮎川の旗揚げ理由だった。

鮎川のコンツェルン・日本産業昭和12年頃の顔ぶれは、日立製作所・日立電力・日本ビクター&蓄音機・日産火災・日本鉱業・日本水産・日産護謨・日産&樺太汽船・日本エレベーター・その他、造船、水産、満州&台湾まで含むと傘下は百参拾社、総従業員10余万人という企業集団だった。

 

日産の車造りは先ず大阪のダット自動車製造買収に始まり、昭和10年横浜工場完成で生産量が飛躍的に伸び、乗用車1631台/貨物3800台→11年2562台/6163台→12年3578台/8353台に達した。
その間に運転講習会や遠乗り会、日産グラフ創刊、宣伝に有名女優採用、高等女学校卒のお嬢さんでダットサンガールを組織し家庭訪問で車愛好主婦の育成など、画期的宣伝活動を始めたのは昭和10年入社の鮎川とは遠縁の片山豊だった。

ダットサンが軌道にのると鮎川の次の一手は、日本フォードと日本GMに牛耳られた大型乗用車市場への参入だった。で、経営困難の米グラハムページ社の80型と73型2ドア/4ドアの製造権、設計図・金型・工作機械・治工具+新型貨物自動車の設計&試作の譲渡契約完了が昭和11年だった。

このようにして完成した国産大型乗用車{ニッサン}は、昭和12年5月大手町で盛大な発表会を開催。1937年型ニッサン車32台に加え新型ダットサン18台、合計50台という力の入れようで、東久邇宮、商工・陸軍・海軍・鉄道など各省庁を招待、会期中訪問の一般観客は5万人に達したと云われている。
その販売価格はセダン4000円、フェートン4500円。ついでにダットサン1900円。参考迄に当時の物価:金3.8円/g・もり蕎12銭・支那蕎=拉麺15銭・葉書2銭・バス10銭・ガソリン15銭/ℓ・自転車70円・巡査初任給45円・公務員初任給75円。

ニッサン70型フェートン/トヨタ博物館蔵:日産では乗用車の他にWBが異なるトラックシャシーとバスも発売。バスは斬新流線型キャブオーバー型が注目され客室広く回転半径が小さいと好評だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

 

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