駆け足でダイハツ100年の足跡

コラム・特集 車屋四六

私が小学6年の1945年、日本は敗戦、焼け野原の中で先行きどうなるやらと子供心に不安だったが、中学→高校、国土復興に平行して成長、大学の頃には21世紀を見られるだろうかと思った。

未だ世間はノンビリだった幼児期、戦中の少年期、敗戦から復興中の青年期、バブル急上昇中の壮年期経て2019年で86才となった。

そんな経験などクソ食らえという長命なのがダイハツ。人と企業を比較すべきではないが、国産初の乗用車タクリー号誕生の明治40年/1907年に創業したのが発動機製造。内燃機関国産化が目的で、発電用、鉱山動力用など大型発動機が活躍した。

ロシア革命の大正6年は創業10周年、船舶用850馬力蒸気機関完成、更に軍用貨物自動車開発に成功する。また関東大震災の大正12年には、ディーゼル発動機の開発にも成功する。

昭和初期のガス発動機、石油発動機に加え、ディーゼル発動機も開発:このLH-35型単気筒25馬力は、昭和8年滋賀県に灌漑用で納入、その後20年間22万坪の田畑に水を供給し続けた

第一回サッカーワールドカップがウルグアイ・モンテビデオで開催された昭和5年、完成した500ccエンジンを搭載した国産エンジン搭載の日本初三輪貨物自動車を完成。翌年ツバサ號の名で販売開始。

日産自動車創業の昭和8年に東京進出、750cc三輪貨物に初めてダイハツ號の名を冠した。

昭和初期登場の国産三輪貨物の発動機は舶来…その国産化が難しい発動機をダイハツが開発、ついでに車も開発して好評を得た

創業30周年の昭和12年は、トヨタ自動車が創業し、支那事変の切っ掛けになる盧溝橋事件勃発。ダイハツは732ccの小型乗用車を開発するが、支那事変からWWⅡ突入で生産には至らなかった。

昭和20年敗戦。ホンダ技研誕生の22年、元気を取り戻したダイハツは、戦後流通業界の寵児三輪貨物で、戦前からのライバルのマツダと戦後登場の新顔達相手に熾烈な戦いを始める。

そして昭和24年には大阪証券取引所に上場、46年にはユニークな三輪乗用車ビーを発売し、社名をダイハツ工業と改名した。

さて創業50周年は、世界初人工衛星ソ連のスプートニクが成功した昭和32年。国内で大人気の軽三輪貨物ミゼットを海外輸出し、未だに東南アジアで活躍する三輪タクシーの元祖となる。

昭和32年に登場して一世を風靡した軽三輪貨物自動車ミゼットの二代目。一つ目玉が二つ目に、バーハンドルが丸ハンドルに進化している

カラーTV本放送開始の昭和35年、ハイゼット軽トラ発売。ケネディ大統領暗殺の38年にコンパーノで登録車メーカーの仲間入り。昭和40年いざなぎ景気で、3C{車・カラーTV・クーラー}に庶民が憧れた年にフェローが登場する。

創業60周年は日本の自動車保有台数が1000万台突破の昭和42年で、トヨタと業務提携する。日本経済発展に乗り成長したダイハツは、バブル崩壊後を元気に乗り越え、2007年で100周年を越えた、そんな状況は皆様御承知の通りだ。

近頃のダイハツは、トヨタ色が強くなり、車に個性が無くなったと嘆くファンもいるが、小型エンジンや小型車ではトヨタより一日の長があり、EVでも高い技術のダイハツ、合理化の中で個性ある車の開発をファンは待望しているはずだ。

トヨタが苦手な軽市場ではスズキと覇権争いを演じているが、かつては北京上海で元気だった中国製シャレードのタクシーも撤退。欧州やアジアでも見掛けなくなった。トヨタの世界戦略だろうが、寂しい限りである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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