飛行機屋たま電気自動車を造る

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平成末期から令和に跨がり、ルノーや三菱とファミリーを築き、とかく話題多き日産自動車だが、さかのぼればプリンス自動車と合併したことは周知の事実。そのプリンス自動車のルーツは、旧中島飛行機財閥解体で生まれた富士精密だが、立川飛行機から分派した東京電気自動車(後にたま電気自動車)を吸収合併する。

省エネ、排ガス、等々で近頃脚光を浴びている電気自動車だが、19世紀末から20世紀初期に活躍、生まれたばかりのガソリン車より高性能を誇った時代もあった。が、ガソリン車の高性能化が進むにつれて淘汰の波に飲み込まれていった。

さて、神国日本のよもやの敗戦。戦争中からのガソリン統制が戦後も続いて、自動車は木炭で走る代燃車ばかり。そんな世間を見てアイディアをひらめかせたのが、飛行機を造れなくなった立川飛行機の技術者達で、ガソリンが無ければ電池で…と云うなれば古き諺の温故知新というやつである。

で、誕生したのが会社所在地にちなんだ「たま電気自動車」だった。誕生は1947年で、翌年の商工省の電気自動車性能試験ではライバル相手に優れた成績で、51年迄好調に1099台を売り上げた。

たま電気自動車:全長3200×全幅1270×全高1650㎜・WB2000㎜・車重1050kg/内電池360kg・ボディー・オオタ自動車のトラックシャシーに木骨鋼板張りボディー架装・床下に電池搭載。

この好調は更に続くはずだったが、折からの朝鮮動乱で軍需物資の鉛価格が10倍にもなり、当然電池価格も高騰、さらに米軍が放出したガソリンで統制も解除、という経過で将来を約束されたはずの電気自動車はトドメを刺されてしまったのである。

で、富士精密にエンジン開発を依頼、搭載し完成したのがプリンス號で、会社名もプリンス自動車と改め、その後富士精密と合併したが、プリンス自動車の社名は存続するのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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