世紀の名品フォルクスワーゲン/KdFの誕生

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20世紀は自動車発展の世紀だが、たくさん生まれた車の中から最高を絞り込めば、最後はフォードT型とフォルクスワーゲンにたどりつく。高級車、名車は数々あるが、大衆の移動道具としての自動車普及に果たした役割が大だからだ。

独裁者ヒトラーの批判される数多い施策の中で、アウトバーン建設とVW開発は良策として認められている。が、国民車開発はヒトラーの念願だが、ずっと以前から国民車構想を持っていたのがポルシェ博士で、それが偶然出会ったのが陽の目を見る切っ掛となった。

その始まりは1931年、二輪メーカーのツンダップの依頼で3台の試作車を納入、各種テストは上々だったが残念ながら没。

次の依頼主はNSUで、34年3台の試作車を完成納入するも、これも残念ながら生産は実現しなかったが、全鋼製モノコックボディーの姿は既に、VWそのものだった。この時に開発したトーションバースプリングは特許を取得、シトロエン、モーリス、アルファロメオなどが採用して、かなりな特許料収入をポルシェ事務所にもたらせたようだ。

詳細は省くが、34年ヒトラーはポルシェの大衆車構想を聞くと「やりなさい国家的事業として援助しよう」と激励した。幸いなことに既にヒトラーには国民車構想があり、ポルシェの進言は渡りに船だったのである。

当時ドイツには帝国自動車産業連盟=RDAがあり、国民車構想を練っていたところへ登場したポルシェには反感もあったが、ヒトラーからでは断る術もなく受け入れた。10ヶ月以内に試作車を、という契約通りに受け取ったRDAは、厳しい試験を繰り返したが、ケチを付けるとこが見つからず、事業継続をすることに。

こうして完成した車にはKdF(Kraft durch Freude)=力行歓喜/働いて歓びを、と命名され、年産50万台規模の工場を建設し、38年に稼働を始めた。が、KdFが量産されることはなかった…39年ドイツ軍ポーランド侵攻で、軍需工場に転換したからだ。

1939年型KdF:稼働した新鋭工場で生産されたが生産台数はごく少数でナチの幹部などに割り当てられたようだ。全長3900×全幅1500×全高1500㎜・WB2400㎜・車重750kg/生産量44台。

やがて敗戦、空爆による瓦礫の中から立ち上がった工場は、英軍管轄下でKdFの生産を再開し、その名もKdFからVW=国民の車と変えてからの大成功は、今さら説明の要もなかろう。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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