異国で帝国海軍初の局地戦闘機雷電に出会う

コラム・特集 車屋四六

私の海外旅行は商売柄自動車がらみが多いが、たまには観光や好きな飛行機博物館などいうこともある。1990年代、ワシントンのスミソニアン・海軍博物館・ポールガーバー修復工場、そしてLA郊外のチノ飛行機博物館を巡ったことがある。

ゼロ戦や紫電改は世界的有名機だが、他にも世界一流が沢山あった。そんな一機、チノで雷電に出会い本物かと目を疑った。
WWⅡ以前の日本海軍には、インターセプター=迎撃戦闘機の思想がなかった。迎撃は陸軍の仕事と決め込んでいたのだが、開戦後に海軍にも必要と感じ誕生したのが、局地戦闘機雷電だった。

日本帝国海軍局地戦闘機・雷電:太い胴体から前方に絞り込まれていく発動機カウルが良く判る/奥にゼロ戦が/チノ飛行機博物館。

開発はゼロ戦で知られる三菱堀越二郎技師。雷電は局地戦闘機らしく、格闘性能より速度と上昇力優先で航続距離が180㎞と短いが、最高速度612㎞はゼロ戦よりはるかに速く、20㎜機関砲四門の一撃で敵をやっつけるという戦術思想で生まれた戦闘機だった。

初飛行は1942年/昭和17年。ビングクロスビーのベストセラー♪ホワイトクリスマス♪が誕生した年だった。全長9950㎜、全幅10800㎜。発動機は三菱火星13型二重星形14気筒・1420馬力だが、完成後に馬力不足と判定されて、ボア+15㎜、ストローク+17㎜で気筒容積を4万2051ccに拡大し、水メタノール噴射で1820馬力の火星23型に発展換装する。

が、本来火星は、一式陸上攻撃機や川西二式飛行艇などが搭載する大型発動機だから、直径が1340㎜もあり、結果、ずんぐり胴体は空気抵抗を気にする戦闘機には致命的欠陥となった。
で、苦肉の策がプロペラシャフトを延長しての円錐形カウルだが、振動や加熱などで馬脚を現したので、プロペラ後部に冷却ファンを内蔵したりして問題解決した。

三菱金星62型空冷二重星型1000馬力発動機/米ポールガーバー社でレストア直前:雷電の火星とは違うシリーズだが同じ会社で同じ形状なので参考迄に。

試行錯誤、対策で実用可能になったのは敗色も濃くなった昭和19年だが、厚木三〇二空の雷電は、太く長い胴体で前方視界不良と試験飛行士からの評価をよそに、8000mまで9分46秒という素晴らしい上昇力にものを云わせて、毎日本土を蹂躙するボーイングB29爆撃機を迎撃し戦果を上げていったのである。

国民学校六年生の頃、毎週家に送られてくる報道写真で私は雷電を知ったが、それから60年ほども経って、米国で実物に会えたのだから感激ひとしおだった。

戦後私が飛行訓練を始めたのは昭和28年。当時の教官は、戦争を生き抜いた腕の立つ歴戦の勇士ばかり。その中の一人、朝日新聞の東儀主席パイロットから「重い機体と弱い脚で経験の浅い操縦士には着陸が難しく不評だったがベテランにはスポーツカーのように楽しい戦闘機だった」と聞いた。

昭和18年頃家に郵送された陸軍の局地戦闘機「鍾馗」の写真:堀越技師の知恵で絞り込んだ先端部以外は雷電とほぼ同じ姿だが、尾翼部分は形状と面積を知られたくないのか検閲修正され、キャノピー後部も何かおかしい。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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