舞鶴赤れんがパーク
レトロとモダンが交差する観光交流施設
冒頭で紹介したとおり、東舞鶴は明治期に旧海軍鎮守府の開庁以降、佐世保、呉、横須賀とともに日本の4軍港の一つとして整備され、昭和初期にかけ官舎や倉庫等の海軍施設を中心に赤れんがの建造物が作られた。第二次世界大戦終了後75年が経過した今も、当時の建造物が多く残され日本有数の赤れんがのまちとして知られている。
現在、海上自衛隊の桟橋の周辺には、旧海軍の倉庫として作られた赤れんがの建造物が集中しており、全12棟が残っている(うち8棟が国の重要文化財に指定)。その一部の倉庫群が整備され2012(平成24)年に舞鶴赤れんがパークとしてリニューアルオープン。歴史遺産としてだけではなく、イベントスペースやアートスペースとして活用されている。
赤れんがパークには1号棟から5号棟まであり、先に紹介した「赤れんが博物館」が1号棟で、2号棟は「舞鶴市政記念館」、3号棟は「まいづる智恵蔵」、4号館が「赤れんが工房」、5号棟が「赤れんがイベントホール」となっている。
舞鶴市政記念館(2号棟)は、第二次世界大戦終戦までは砲銃庫として、戦後は市役所の第二庁舎として使用された。ここでは、絵画や写真等の展示や音楽の発表に利用できる、吹き抜けの空間を持つホールや飲食施設を備えている。
まいづる智恵蔵(3号棟)は、終戦までは砲弾や小銃の倉庫として、戦後は民間の倉庫会社が倉庫として使用していたもの。先人の智恵を継承し、智恵を育む場として開設された。舞鶴の海や京都エリアのみやげものが購入できる他、旧海軍ゆかりの展示も行われている。
赤れんが工房(4号棟)は、終戦までは砲銃庫として、戦後は民間会社の倉庫として使用されていた。扉や窓、瓦屋根などに当時の形式を再現しつつ、創作工房として子供向けの陶芸教室や音楽スタジオを備え、市民のものづくりの拠点として活用されている。また、結婚式や披露宴会場としても貸し出されている。
赤れんがイベントホール(5号棟)は、他の倉庫よりも新しく大正期に作られもので、終戦までは水雷庫として、戦後は民間会社の倉庫として使用されていたもの。赤れんが倉庫群の中で最も規模が大きく、自由なレイアウトが可能な多目的ホールとして使用されている。展示会や音楽イベント、舞鶴市の成人式の会場としても使用されるという。
各倉庫には鉄道の引き込み線があったそうで、一部には線路も残されており、鉄道輸送をイメージする展示もある(3号棟)。また、建設時期によっても倉庫の作り方が細部で異なっている。大正期に建てられた倉庫は、国営製鉄所の鋼材をふんだんに使用しより堅牢になった(明治期に建てられた倉庫の鋼材はアメリカからの輸入品)。
また、倉庫の窓も長方形だけではなく、上部を湾曲させたアーチ状の窓や円形の丸窓もあり、美しく見せる工夫も随所に見られる。湾曲部分に直方体のれんがを積むにも手間がかかることは容易に想像できる。
赤れんが博物館の部分で紹介した“れんが積み”の違いも見られる他、赤いれんがなのに黒く塗られた部分もある。これは、海沿いゆえの塩害防止、降雪による湿気防止の為の釉薬(うわぐすり)が塗られたもの。夜間はライトアップされ昼間とは異なる表情も見られる。
舞鶴市田辺城資料館
田辺城と城下町の歴史を今に伝える
現在放映中の2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は戦国時代の智将、明智光秀の物語。その明智光秀の盟友といわれた細川藤孝(後の幽斎。演:眞島秀和さん)が築いた城が田辺城だ。今はその城跡が舞鶴公園となっており、復元された城門が「舞鶴市田辺城資料館」になっている。
田辺城資料館では、細川幽斎をはじめとする歴代城主(京極氏:1600年~、牧野氏:1668年~1873年)や、田辺城290年の歴史と城下の暮らしをパネルや模型で紹介している。
資料館の隣には、舞鶴出身の実業家・政治家であり篤志家の有本国蔵氏の寄付により、城の隅櫓を模して1942年に建設された文化財展示施設「彰古館」があり、現在は幽斎の生涯が紹介されている。
田辺城を広く世に知らしめ、後世まで語り継がれたのは、関ケ原の合戦の前哨戦ともいわれる「田辺城籠城」。石田三成の命を受けた西軍1万5000人の軍勢が城を包囲。城を守るのは細川幽斎とわずか500人の軍勢だった。籠城戦は52日間に及んだという。城が作られた場所は元々湿地帯で、川の流れを変えて作った広い濠が城を囲み敵軍を遠ざけていた。湿地ゆえ湧水も豊富で、籠城中は水に不自由しなかったという。
500人と共に城を守った細川幽斎は、大河ドラマでも描かれるように将軍家や公家と親密な関係にあった。戦国武将でありながら優れた文人で、和歌、連歌、茶道、書道等々多彩な才能を発揮。中でも、公家の三条西実枝(さんじょうにしさねき)から伝授された、古今和歌集の秘事口伝の伝承者(古今伝授)でもあった。
ここで幽斎が死んでしまえば口伝が途絶えてしまう。それを憂慮した後陽成天皇から、勅命が両軍に届けられ籠城戦に幕が下りた。天皇まで動いた和平交渉の中で、幽斎は一首の和歌と古今伝授の秘伝書を朝廷からの使者に託したという。それが二の丸にあった松の木の下で、後に城主となった牧野氏が心種園として庭を整えた。
籠城戦終了から2日後に関ケ原の合戦が始まり、ここにいた西軍1万5000人の軍勢は合戦に参加できず、徳川家康からは功績として褒められたという。
一方、城下町は江戸時代から北前船の寄港地として発展を遂げた。日本海沿岸の港から多くの産物が陸揚げされ、港に近い高野川周辺には商人が集まり、商品を保管する倉庫がいくつもあり今もその姿を残している。