飛行船活躍の始まりと終わり

コラム・特集 車屋四六

さて、WWⅠ敗戦後もドイツのツェッペリンは健在で、昭和4年/1929年に戦後建造のLZ-127号船/マイバッハV16/1200馬力が、世界一周の途中日本に寄港している。
この飛行のスポンサーが米国のハースト新聞王。かなり前に、暴れ回って話題を振りまいた過激派娘パトリシア・ハーストは一族。

ツェッペリンLZ127/全長236.6m/マイバッハ550馬力x5:世界一周3万1400㎞/21日5時間31分/豪華客船並食堂にはアルミ製グランドピアノもあった/一等料金$9000/霞ヶ浦→米国まで海軍中将草鹿龍之介が同乗している

WWⅡ開戦前の1937年、英国の新兵器レーダーが、東方海上に馬鹿でかい未確認飛行物体を映し出した。で、スクランブルで飛びだしたのは、ロールスロイス・マーリン搭載のスーパーマリン社の新鋭スピットファイヤー戦闘機だが、発見したのは、公海上を悠々と飛ぶ巨大飛行船ツェッペリン二世号だった。
その目的は、新鋭レーダーの性能とスクランブル体勢チェックで、英領空すれすれを飛び、データ集めをしていたのだ。

敗色迫った1945年、独ゲーリング空軍大臣は、残るツェッペリンの破壊を命じ、ハンブルグのハンガーで自爆したのが惜しまれる。

ちなみに日本に寄港したツェッペリンLZ127号/マイバッハV12/560馬力x5基。また大西洋を渡り米国到着時に炎上した悲劇のヒンデンブルグLZ129号はダイムラーベンツV16/1200馬力ディーゼルx5基。この事故で飛行船の商業飛行が終わりを告げたので、LZ129が最後の飛行船と思ったら、LZ130があり、それがツェッペリン二世号だったのである。

到着地米国で炎上するヒンデンブルグ号LZ129:開発時はヘリュームガス仕様だったが米国の輸出禁止で水素に変更したのが裏目に出た

余談になるが、昭和3年イタリーから日本海軍が輸入した半硬式飛行船N3号/マイバッハ245馬力x2基は、1926年北極横断飛行成功のノルゲN1号に、海軍が惚れ込んだのである。

その成功者ノビレ将軍は、5回目の北極飛行で遭難。そして到着したスエーデン救難機に1名しか乗れず、ノビレと愛犬だけが救助され、救助が遅れた乗員16名が遭難した。で、ノビレは非難を浴びることに…がWWⅡ後に名誉は回復された。
この遭難には未だ余談がある…ノビレのイタリア号遭難で国際的救難活動が始まり、南北両極点到達の偉業で知られるノルエーの探検家アムンゼンが救助に向かうが、行方不明になり遭難した。

北極点に向かうイタリア号N1:全長105.4m×直径19.4m/マイバッハ1250馬力x3/最高速度112.3㎞

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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