日産・レパードは良い車だったのに。

コラム・特集 車屋四六

「赤信号みんなで渡れば怖くない」ビートたけし、「からすの勝手でしょ」志村けんなどが流行語の1980年は漫才ブームだった。
その年、日本は自動車生産台数1104万台で遂に世界一に、日産からはラグジュアリーなレパードが誕生した。

戦後15年、敗戦の後遺症も消え、世の中贅沢気分が育ち始めて、乗用車には実用的な1Lや2Lに加えて、高級感ある大排気量車が登場。で、レパードにも2.8Lがラインアップされ、背が低い姿のシルエットで、遊び心豊かなオーナー向け高級車だった。

低く幅広で流麗姿のレパード四ドア:後ろは富士重工製FA200四座軽飛行機/調布空港で。

開発桜井真一郎。高級感ある直六OHCはL20/130馬力とL28/145馬力二本立て。四輪ディスクブレーキ+ラジアルタイヤなど、全てが当時の最先端で、フェンダーミラーがワイパー付だった。

スマートなレパードは当初好評だったが、一年も経たないうちに予想外な天敵が出現する。登場したトヨタ・ソアラの強さが圧倒的で、アッという間に王座を奪われた。そんな81年に登場したのが、東京∽名古屋∽大阪、日本初のファクシミリ電送=FAXだった。

日増しに増すソアラ人気とは裏腹に、レパードの右肩は下がっていった。で、起死回生と、L20Eターボ145馬力を投入するも焼け石に水。結果、高級感が売り物のL28Eを引退させてしまった。
そんな82年、日本初のワープロだと登場した{マイオアシス}の値段は実に75万円だった。

ソアラ打倒に執念を燃やす日産は、84年にV型六気筒搭載のグランドエディション331万円を登場させる。VG30DE-Tは2960cc+ターボで強力230馬力だったが、ソアラの天下を覆すことはできなかった。

余談になるが、82年にワープロが登場し普及が始まると早速登場したのが「ワープロ資格検定制度」。今にして思えば、早速跳びついた役人の、天下り先誕生だったような気がする。

ソアラとの戦いに敗れた初代レパードは、86年に心機一転、パワーで駄目なら高級感で勝負とフルモデルチェンジした。
最上級はフェアレディZと同じVG30ETターボ230馬力は、当時最強だったが、二代目は素晴らしい仕上がりにもかかわらず、悪運から逃れることができなかった。

見るからにゴージャスで格好良いV6搭載の二代目レパード/小田原漁港で。

一ヶ月早く登場したソアラが、いきなり1万1000台を売り上げる人気で、日本人が信奉するブランド化したソアラには勝つことができず、またもや負け犬となってしまったのである。

「たら・れば」とは女々しい表現だが、もし日産がソアラへの敵愾心を捨てて、スポーティーな裕福オーナー向けスポーティーセダンに特化していたら、ライバル無しの市場で別の展開が待っていたのではという気がするのだが。

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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