【車屋四六】スワローサイドカー&コーチビルディング社

コラム・特集 車屋四六

昭和2年/1927年、全世界の自動車保有台数(含貨物)は2458万9249台。大半が米国で2005万台、二位81.6万台英国、三位73.5万台フランス、四位71.6万台カナダだが、9万2698台の日本は当時まったくの自動車後進国だったのである。
{一国の富力は自動車の利用が標準となる}…当時の商務省見解からも、日本が後進国だったことが納得できよう。

大正天皇崩御が大正15年12月15日だから、昭和元年は僅か16日、事実上、昭和2年が昭和年号の始まりと云ってよかろう。
が、新昭和時代は年賀状激減、三菱、三井に並ぶ財閥鈴木商店破産、金融恐慌など波乱時代の始まりでもあった。

一方、自動車関連では、保有台数僅か9万台といえども、発展途上国らしく、増加する自動車に対する庶民の認識不足で{自動車事故激増}と新聞が報じている。

そして{円タク}登場が話題に。警視庁が運輸自動車の乗客運賃の許可値段を、東京市内全て一円(一人増二十銭)と定めたので{円タク}の愛称が生まれた。が、運賃が値上がりした私の子供の頃でもタクシーは{円タク}だった。

そんな27年の英国で、格好いいロードスターが登場した。
その名をオースチンセブン・スワローと呼び、製造はスワローサイドカー&コーチビルディング社だった。

この会社、ウイリアム・ライオンズが若干21才の時、美しいサイドカーの製造販売で創業した会社である。
昔の英国はオートバイ天国らしく、沢山製造されるサイドカーは不細工なものばかり、そこがライオンズの狙い所だった。
{美しいものは売れる}これがライオンズの信念だった。

ライオンズは、いまでも通用するだろう美しいサイドカーを発売して、成功を収める。そして第二彈が乗用車のコーチビルド。
当時コーチビルドといえば金満家御用達。ロールスロイスやダイムラーなどを金持ちが、美しく仕立てて乗る時代だった。

経営手腕に優れたライオンズは、優れたデザイン感覚と優れた宣伝感覚も持ち合わせていた。で、高嶺の花のコーチビルドを庶民に届けようと、ベストセラー大衆車オースチンセブンをベースに選んで、美しく着飾ったのである。

たった50ポンドで美しく変身の大衆車オースチンセブンはコーチビルドという高嶺の花を大衆の手に

最初の作品ロードスターで注目を集め、次ぎのセダンでは、50ポンドで大衆車オースチンセブンが、こんなに美しくなるというので、たちまち人気者に…ライオンズの企画は見事に的中した。

コーチビルダーは客の希望で架装を受けおう商売だから、当時イギリス市場で人気の大衆車のモーリス、ウーズレイ、スタンダード、フィアット、スイフト等々が、美しく変身出荷されていった。

次々のヒットでライオンズは、次のステップへと踏みだすのだが、それは念願の自前製作の四輪乗用車で、その経緯は次回に。

サイドカーの成功を踏み台に次のステップは四輪車の改装:オースチンセブンは格好の良いロードスターに変身