バンコクレポート第四弾はシトロエン2CV。シトロエン2CVは、本稿に何度も登場しているが、エピソードが多い車だけに、いろんな角度から話が書ける、ライターに取り有難いネタである。写真トップはバンコクのシトロエン2CV。このような美しいツートーンカラーが有ったか記憶にない。ボンネットのマスコットも。私が乗った2CVのリア窓は跳ね上げ式ではなく嵌め殺しだった。
2CVのデビューは、WWⅡが終わって三年が経った1948年のパリサロン。のちに名車の誉れ高い2CVも、お披露目の白いベールを外したオリオール大統領が、姿を現した2CVの姿にビックリ、で、一瞬の間を置いて白けきったという。
ビックリしたのはアメリカ人ジャーナリストもで、奇怪な自動車に”ジャベル河岸のブリキ缶”とニックネームを付けた。また”見にくいアヒルの子”の名も生まれた。
WWⅡが終わったヨーロッパでは、敗戦国はもちろん戦勝国でも、戦争中供給が切れた自動車の需要が旺盛。が、経済復興中の庶民には安い車が必要で、軽自動車=いわゆるバブルカー、そしてフィアット500やルノー4CVなどの超小型車が好評だった。
先ずブーランジェの開発コンセプトは、①籠一杯の卵が荒れ地走行で割れないこと②ブーランジェのハットテストに合格すること③コウモリ傘に四輪を付けたような簡素な車。四人の大人と50㎏の荷物が積めることであった。
ブーランジェの”ハットテスト”は既に有名で、長身の彼がシルクハットを被って乗降着座出来るという条件である。彼は38年から社長就任、自動車事故で50年に早逝した。
開発開始から一年で試作車完成。水冷水平対抗二気筒375㏄8馬力。そして38年までに姿かたち機構を変えながら、300台近くを試作、走行実験を繰り返した。
コストダウンの徹底で、軽量化目的のキャンバストップ、フランスではOKの左だけ一個のヘッドランプ、手動の一本ワイパー、薄板の強度強化で波形プレスの外板部材、極めつけが船外機風ロープ牽引始動のエンジンだった。もっともこれが婦人に悪評で「爪が剥がれる」という理由でクランクハンドルに変更。が、戦後発売時には、さらに電気スターターに改められていた。
さて完成した2CVは、39年のパリサロンで発表、発売されるはずが、ドイツのポーランド侵攻でショーが流れ、発売の時機を失った。そして、こんな良いものナチの餌食になったら大変と、試作車全部の破壊破棄を命じ実行、2CVはこの世から消え去った。
と思っていたら、50年代の或る日、工場内の壁と外壁の間に疑問を持ち、壁を壊したら一眼一本ワイパーの2CVが現れた。たぶんパリサロン出品予定車だったと想像できるが、ドイツのパリ進行で壊すに忍びず、あわてて隠したのであろう。
これが唯一現存する戦前の2CVだったが、90年代に入って突然事情が変わる。戦前300台がテストで走り回ったノルマンディー近くの農家の納屋屋根裏から、更に三台のプロトタイプが見つかった。
このあたりに関しては、いずれ詳しくということにする。さて、48年にようやく陽の目を見た2CVは、大統領の戸惑いをよそに、たちまち人気者。しかも長寿。なんと42年間、90年まで生き続けて、累計358万2583台を世に送り出したのである。
発売された2CVのOHVエンジンは、375㏄9馬力ながら空冷になって、4MTで55km/h、スピードメーターがオプションの大衆車ではこれで充分だった。整備の簡易性もズバ抜けて、ハンドツールで分解組み立てが出来るほど。それをやった我が先輩は、満タンで東京軽井沢間往復ができると低燃費を自慢していた。
さて、バンコク自動車ショーのクラシックルームで見つけた2CVは、初期型ではないが、リアサイド上部にブレーキ灯がないので57年以前。たぶん52~53年頃ではないかと思う。でも、こんなツートーンカラーの美しい姿を見た記憶がないから、オーナーが再塗装したのだろうか。
また、リアドアの窓の跳ね上げ式も記憶にない。暑いタイ国仕様なのか、オプションなのか、改造なのか、読者で判断の付く方が居たら、是非お知らせ頂きたい。