【車屋四六】ハードトップコンバーチブルが珍しかった頃

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ハードトップとは直訳すれば硬い屋根だが、自動車用語では車体形状を指す。前後のガラス間にBピラーが無いから開放感に満ち、姿も良く、55年前後にアメリカで一般化した。

初めの頃は、2ドアのBピラーレスだったが、57年頃になると4ドアにも柱が無くなり、その極めつけがベンツ300の三角窓を含めた6ライト型全部が柱無しという徹底ぶりだった(6ライト=英国流呼称で両サイド合わせて六つの窓の意)。

日本で4ドアのピラーレスはセドリックが早く伝統的に継承したが、トヨタは転倒時の強度を考慮して一見4ドアハードトップではあるが細いピラーが隠れていて、これをピラードハードトップと名付けていた。

さて、コンバーチブルはアメリカ的言い回し。イギリスではドロップヘッド。日本では昔オープンカーと呼んでいた。幌屋根をたためばオープンになり、開放感を満喫できるというわけだ。

で、WWⅡ以降電装品の発達で、アメリカ車では幌の開閉が電動になり、簡単に変幻自在全天候に対応できるようになって、コンバーチブルと呼ぶようになったようだ。

が、幌は耐久性が無く、刃物で切れる、寒さに弱い。で、もし金属ならとは誰でも思いつくことで、登場したのがホンダCR-Xデルソル。電動でアルミ製軽量屋根をトランク内に収容する仕掛け。

デルソルの登場は92年。報道発表会で若い評論家は「コロンブスの卵だ」と感心したが、車とは長い付き合いのオジン評論家達は「昔あったよ」と知っていた。

遠い昔、フォードが販売して、何台かが日本にやってきたのを見ていたのである。時代は昭和32、33年頃の外国車輸入禁止時代だから、オーナーは米軍兵士軍属達である。

昭和32年といえば、日本では初代プリンススカイライン、初代トヨペットコロナ、富士キャビン、ダットサン210が登場した年で、国産車愛用を閣議決定。軽三輪登場。いすゞ、日野、日産などの海外技術提携車の完全国産化が終わった年でもある。

昭和32年=57年だが、この年のフォードの下位モデルはカスタム300で、上位モデルがフェアレーン500。その最高モデルが電動ハードトップモデルで、フェアレーン500スカイライナー・ハイドアウエイ・ハードトップと長たらしい名前が付いていた。

もっとも、ハードトップコンバーチブルを歴史的に見れば、WWⅡ以前の34年、既にプジョーが、401エクリプスの名で量産販売したのが世界初だろう。

WWⅡ後初の電動ハードトップ、フォード57年型の屋根が開くのを初めて見た時は、いたく感激したものである。

OPENのスイッチを押すと、トランクの蓋が跳ね上がり、次にルーフが持ち上がりながら、先端が手前に折れ、全長を短くしたルーフがトランク内に収容されていく。完全に入ると、トランクの蓋が閉じる。何か不思議な物を見ている感じだった。

値段の3400ドルは、サンダーバードと並ぶ高価な車だった。心臓部はもちろん高級モデルにふさわしいフォード伝統のV型八気筒OHV、215馬力、5436㏄。大排気量ならではの強力なトルクで素晴らしい加速だった。

メルセデスベンツ300D:各国王侯貴族元首金満家御用達高級車だがアメリカからのハードトップ流行の応えて左右四枚、計八枚の窓ガラスが全部空いたのだから大したもの。壮観

日本に輸入された大半は、フォードマチックと呼ぶ三速型AT。最高速度は170km/h。憧れの車だったが、何故か後継モデルが登場せず、これっきりの作品となった。聞くところによれば、故障が多かったという。

でも、電動ハードトップが駄目ならということで、手で取り付けたり外したり、というハードトップが続出した。やはり幌よりはハードトップの方が安心快適ということなのだろう。

が、20世紀が終わる頃から、電動ハードトップは流行開始。で、ほとんどのメーカーに登場している。ソアラ、ベンツ、プジョー、マツダロードスター、BMW、ボルボ、レクサス、ダイハツコペン、日産マイクラ等々、枚挙にいとまがない。

21世紀に入り電動ハードトップは珍しくもなくそこら中に。写真はレクサスIS250C