ルノー4CV霞町の坂を登りきる

コラム・特集 車屋四六

「こいつは凄いトップで上まで」と坂の上で歓声を上げたのは確か高校三年の時だった。そのフランス製ルノー4CVは、国際自動車興業西村昇社長の息子が学校に乗ってきた車だった。

国際自動車興業というと、似た名の会社がある。政商と呼ばれた小佐野謙治の国際興業、ハイタク業界大手国際自動車の波多野社長の息子は高校大学同期。国際自動車興業は自動車用機械工具商で社長の息子西村元一が、高校大学そして航空部で一緒だった。

当時、外車輸入禁止時代の末期で、ある時数十台の輸入新車を抽選販売したのを、たまたま西村の父親が当てたもので、たしか96万円と聞いた。

さっそく学校に乗ってきたので悪ガキ四人が集まり「霞町の坂をトップギアで登るか」と賭が始まった。霞町は現在の西麻布で、澁谷から六本木、青山から広尾に向かう都電の交差点だった。

高樹町から少し降りアマンドがあるビルは、写真家秋山庄大郎のスタジオがあるビルで、その前がスタート地点だった。

当時車が少ないとはいえ、スクーターや自転車が走り、その間を抜けての暴走だから慎重、前後の車が途切れるのを待ち、坂下交差点の信号が青に変わるのを待つ。

やがて青…急発進。降り坂をアクセル全開だから交差点を過ぎる頃には三速目でトップギア。そのままアクセル全開で六本木に向かう長い登坂を頑張った結果が冒頭の歓声だったのである。
その結果、誰が勝って、幾らになったのかは記憶にないが、あの長い坂をトップギアで登るのは、日本製乗用車では無理な話だった。

1946年登場のルノー4CVは、WWⅡ中すでに開発済みだったから、開発にポルシェがアドバイスしたというのは多分噂でしかなかろう。いずれにしても日本の軽自動車サイズに四気筒748cc・18馬力なのに軽快というのは、550kgという軽量仕上げの御利益だった。

4CVは、シトロエン2CV、FFのDKWなどと同様にタクシーに使われたが、日本の悪路ではサスペンションが悲鳴を上げ壊れ、お払い箱になった。またVWカブト虫はツードアが不適だった。

貨物自動車専門の日野自動車が乗用車市場を目指して53年に4CVの国産化を開始、57年に国産化完了。タクシー需要を考慮の車体強化で100kg車重増加して、直四OHVは21馬力に強化された結果大活躍で{神風タクシー}なる言葉が生まれた。

タクシーで活躍する一方で値段が安いことで自家用車も増えたが未だ庶民には高嶺の花、裕福家庭の自家用車でしかなかった

57年国産化完了時の値段は、DX=79万円。その後量産効果で値下げが続き、次モデルのコンテッサが発売されても継続生産…生産中止の63年には50万円で釣りが来るほどなっていた。

敗戦後わずか数年という昭和20年代末、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチン、三菱ヘンリーJと、ノックダウンからの学習で力を付け、昭和40年代=1960年代半ばには世界の自動車市場を脅かす存在にまでなろうとは、青目の自動車屋たちは考えてもみなかったろう。

東京モーターショーの前身{全日本自動車ショー/日比谷公園}に展示された日野ルノー4CV:後方はプリンス1500セダン

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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