【車屋四六】・クロスレイ、ボルグワルトハンザ、ポンティアック

コラム・特集 車屋四六

桜田通りに外車屋が三軒という話をしたが、日本アメリカン自動車で売っていた「クロスレイ」という車は、日本のダットサンほどサイズだから、大きく派手が常識のアメリカでは珍しい存在だった。

クロスレイという会社は、そんなに古い会社ではない。1939年に生まれて、52年に消滅するという、短命な会社だった。が、第二次世界大戦を挟んで、終生、ミニカー造りに専念するという変わり種だった。もっとも、それが生き残れなかった理由だったのだろうが。

第二次世界大戦が始まる前のクロスレイは、空冷二気筒580㏄だったが、戦後生産を再開した頃には722㏄に強化されていた。私が乗った50年代頃になると、水冷直列四気筒750㏄で26.5馬力になり、小さいながらも走りはなかなかだった。26.5馬力の最高出力点が5400回転で、当時のアメリカ製エンジンでは、感心するほどの高回転だった。

「ボーイングB29爆撃機の発電用だよ」と噂もあったが、現在のジェット旅客機にも補助動力用エンジンが積まれているから、電力消費が大きくなった巨大爆撃機としては、噂は本当だったのだろう。

何人かの知人が、クロスレイのオーナーだった。

48年発売のダットサンDB型がコピーした、スマートなクロスレイ・ステーションワゴンのオーナーは、台東区三ノ輪、大きな瓶問屋の御曹司、川辺先輩だった。

私が高校生の頃から通った、銀座山葉楽器店のそばにチョコレートショップ、通称チョコショーと呼ぶ、学生や若者、バンドマンで繁盛する大きな喫茶店があった。

昭和29年頃だから大学生の頃だが、親友西村と川辺先輩から借りたクロスレイで銀座を流していた。

たまたま松屋の横丁で「火事だア」と銀座通りを走っていく人を見て、西村も私も生粋の江戸っ子”、火事と喧嘩は・・”とばかりに、クロスレイを歩道脇に停め、夢中で新橋方面に駈け出したが、火事はチョコショーだった。

火事が一段落して帰ると、クロスレイは大きなアメ車に前後を挟まれ、動く隙もない。が、途方に暮れる必要はない。リアを二人で持ち上げ、どっこいしょと横に引きずり出せばよいほど、軽量だった。

高校、大学と一緒だった縄田のクロスレイは、ホットショットと呼ぶスポーツカーで、写真は日吉の校舎脇で撮ったものだが、ナンバーが3万台で、第三国人名義ということが判る。ルーペで見るとタイヤカバーに、古いSCCJ(日本スポーツカークラブ)のマークが懐かしい。

「ボルグワルドハンザ」は売れ筋が1800で、それより大型の2400の二本立て。フォードようなフラッシュサイドボディーの、泥よけ(フェンダー)無しの姿が斬新だった。

ボルグワルド1800セダン

後に親戚となる親友、富澤康男、通称トンチは、オリンピック候補にもなった馬の名手、慶応馬術部の主将だった。

その部員の林(りん)君が、1800に乗っていた。ある夏、軽井沢で横腹が傷だらけ、モールも吹っ飛んだ1800を見つけたそうだ。「仲間と呑んだ勢いで軽井沢を目指したらこんなに・・」一杯機嫌で暴走したのだろう、とトンチが笑っていた。

金比羅さまの鳥居は今でもあるが、大きなビルの下になっている。ビルが建つ前は、鳥居の上は空だった。昭和30年頃、鳥居の手前、左側に新朝日自動車が在った。

ちなみに、六本木と溜池の間、たぶん今のアークヒルズ辺りに、新の付かない朝日自動車というのもあって、ロールスロイスやベントレー、ローバー、ランドローバーを売っていた。

新朝日自動車のポンティアックは、キャデラック、ビュイック、オールズモビル、シボレーと続く、一連のGMファミリーだった。53年までは、シボレーのコンポ流用で同じ寸法だが、ちょっぴり高級が売りだった。

アメリカ映画は、戦後最高の娯楽だった。

名喜劇俳優ボブ・ホープがインディアン酋長で、相手の白人に名を聞かれて「アイアム・ポンティアック」で、映画館内は爆笑。が、笑っているのはアメリカ人ばかり。実はポンティアックは実在の大酋長。それを知らぬ日本人には通じないギャグだったのだ。

ポンティアック・チーフタイン・セダン1952年型

写真は52年型ポンティアック。国際自動車興業社長が親父の西村が持ち出して、箱根ドライブと洒落込んだ時のもの。写真は世界的観光地箱根のターンパイクだが、未だ路面が未舗装なのが判る。

ちなみに、政商と云われた小佐野賢治の会社名は「国際興業」。また、赤坂に「国際自動車」と呼ぶ大きなハイタク&観光バス会社があるから、混同しないように願いたい。

実は国際自動車の御曹司、波多野も学校の同期で、学生時代は黒い48年頃のオールズモビルを愛用していた。ある日登校途中、洗足池辺りで故障、困っていた波多野を発見、学校のある日吉まで一緒したこともあった。

写真の52年型ポンティアックは、新朝日自動車から、220万円ほどで買ったそうだ。大手都市銀行の初任給8000円前後の頃だから、庶民には高嶺の花であった。

その頃ポンティアックにはV8がなく、最上級グレードは、直列八気筒だった。今では当たり前の装備、パワーステアリング、パワーブレーキも、その頃では誇らしげにカタログに大書している。エアコン装備なら、なお自慢。日本ならラジオも未だの時代だから、モトローラ製のラジオが羨ましかった。

アメ車で、ぼちぼちと装備され始めたATは、ポンティアックではGM自慢のハイドラマチック型で、Dレンジにタウンモードとハイウェイモードがある、実質四速型という斬新なタイプだった。

近頃では、珍しくもなくなった自動変速機はATの一言だが、当時はオートマチックドライブと呼び、英語が苦手の日本人は、略してオートマ、またノークラッチ、ノークラが通称だった。ついでながら、パワーブレーキもアメリカで普及が始まった頃である。

そのCMには、ブレーキペダルとハイヒールの底との間にサングラスを挟んで「急ブレーキでも眼鏡は壊れません」などと、自慢気に書かれてあった。