ダットサンスポーツDC-3はフェアレディのルーツ

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性能はともかくダットサンスポーツDC-3は、日本で記念すべき名車だと思う。時期尚早、敗戦貧乏の日本では売れるはずもなく、1952年誕生→53年生産中止。50台ほどが生産され、売れたのは半数ほど。当時のスポーツカーファンは芸能人か一握りの金満家だから、舶来優先、日本製というだけで馬鹿にしたのである。

前半部は戦前のダットサンにそっくりのダットサンスポーツDC-3型:全長3510×全幅1380×全高1450㎜・WB2150㎜・車重450kg・定員4名

DC-3誕生の切っ掛けは「自動車メーカーには儲からなくても良いスポーツカーが必要」という宣伝の名手片山豊の持論から生まれたものだ。開発は、戦前オータ號(高速機関工業)開発に従事した太田裕一だった。

当時、敗戦からの苦しい復興中だが朝鮮動乱で回復のきざしが見えた頃で、進駐軍兵士が乗り回すスポーツカーが眩しく、特に可愛らしい姿のMGはスポーツカーの代名詞的存在だった。

日産には47年に戦後生産開始の戦前型ダットサンがあり、そのラジェータグリル、泥除け、前照灯、車体の前半部がMGの姿に類似していたのが幸いと、流用したのだろう。

残念ながら当然性能はMGよりおとった。が、性能だけなら加速も速度も上の大衆車シボレーだが、遅くともMGならスポーツカー気分の楽しさは乗用車とは比較にならず、そんな観点からなら、ダットサンDC-3も上々の気分で走れたのである。

SCCJ/日本スポーツカークラブの佐藤健司、NDC/日本ダットサンクラブの吉田孝夫が持っていたので、乗る機会があったが、確かに性能は最低だったが、気分は正にスポーツカーだった。

52年に誕生、53年に生産中止だから営業的には失敗作だが「儲からなくても良い」という片山論なら、貧しい自動車市場に明かりを灯す一灯であったことに間違いはない。

もっともこの一灯が、後に日産首脳からボイコットされる片山豊の出発点になったようだが。そして次のフライングフェザー開発で決定的となり、豪州ラリー優勝後は露骨になり「帰国したら私の机に労働組合幹部が座っていた」と晩年片山さんは苦笑していた。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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