【車屋四六】天下御免?泣く子も黙る“3A84”

コラム・特集 車屋四六

この原稿を「週刊カー&レジャーニュース」紙に書いたのは、もう20年も昔になる平成元年だから、それを念頭にお読み戴きたい。

当時、アメリカのビッグ3は「世界のビッグ3」で、元気一杯。現在のアメリカには、そのビッグ3だけが生き残っているが、かつては多くの自動車メーカーがひしめいていた。

20世紀初めの頃、50社以上もあった自動車メーカーが合併統合を繰り返しての結果だが、特に第二次世界大戦前の世界大恐慌では、超高級車デューセンバーグ、ピアースアロー、コードなどが脱落したのが惜しまれる。

老舗名門、伝統のブランドなどの脱落消滅は、第二次世界大戦(WWII)後も続いた。

パッカード、ハドソン、ナッシュ、スチュードベイカー、ウイリス、デソート、ランブラー、クロスレイ、そしてカイザー、フレイザーなど枚挙にあまりある。

アメリカ車のブランドが、全てWWII以前のものと思っている人も多いが、実は戦後派もいる。カイザーフレイザー社の創立は、1946年だから、生粋の戦後派である。

カイザー(Henry John Kaiser)は、知る人ぞ知る造船王。それまでの造船手法は一隻づつの手作りだったが、ブロック溶接工法を考案、1万トン級同一船型(リバティー船)の大量生産で財をなした人物である。

大戦中2600隻。最盛期には1日3隻進水。ジープ同様、複数の造船所で造られ、4日と15.5時間1隻進水という造船最短記録も樹立した。

さて、戦争が終われば、消耗品的輸送船はもう不要。で、戦後の乗り切り策を試行錯誤の結果、自動車生産に決定する。

が、辣腕造船家も、自動車造りでは素人。で、GMの販売部門で腕を振るった、フレイザー(Joseph W. Frazer)をパートナーに選び、開発したのが、廉価お買い得のカイザー、ちょっと上等なフレイザーだった。

不運なタッカーも戦後派だった。昭和63年に日本でも上映されたから御存じかとも思うが、上院議員+司法長官まで巻き込んだ、大メーカー主導の陰謀で押しつぶされてしまった会社である。タッカーの現物は、トヨタ博物館が一台所蔵している。

カイザーは、戦後生産再開の他車と比較して、姿が斬新だった。45年8月15日戦争終結。大方の企業は戦前の本業に復帰する。老舗自動車屋は、戦前の金型治具を倉庫から出して生産再開。で、直後の新車は、兵器生産で中止の41~42年型と同じ姿なのだ。

が、戦後派には、戦前の遺産がないから、ゼロからの開発ということになる。また、造船所で車は無理だから工場も必要。で、終戦で不要になったフォードの工場を買い取った。ここでは東京空襲で有名な、ノースアメリカンB25爆撃機を作っており、当初、タッカーが買い取る予定だったのが陰謀で流れ、カイザーフレイザー社の手に渡ったものである。

戦後再起の車は、戦前型らしく泥よけ(フェンダー)が盛り上がった姿が特徴だが、カイザーは戦後開発らしく姿が斬新、脚光を浴びるフォード49年型のフラッシュサイドを、既に先取りしていた。

日本占領のために上陸した米軍には、兵隊とシビリアン(日本軍では軍属)と呼ぶ民間人が居た。

私を可愛がってくれた、O.R.スチュアートもシビリアンだが、マッカーサー司令官直属の会計監査官で、戦争中はロイヤルハワイアンホテルで、極東戦線の財布の紐を握っており、少将待遇という偉いシビリアンである。

彼の自家用車が、1947年型カイザーだった。

カイザーより少し上等なフレイザー47年型

登録番号は「3A84」だが、この番号が曲者である。3Aは、進駐軍専用で日本の官憲には治外法権。加えて84が、米軍関係には“葵の御紋”だったのである。

それというのも、米軍関係の自家用車も、日本のナンバーを付けることが決まった時の提出リストは地位が高い順からで、二桁台というのは、3Aでは驚かない米軍憲兵(MP)でも一目置く、米軍関係の権力者達だった。

このあたりは、封建的日本と似ている。日本人のくせに、日本人を馬鹿にする米軍基地のガードマンが、直立不動で敬礼するのが愉快で、優越感に浸かることが出来た。

もちろん、3A1はマッカーサーの家族が乗る自家用車だが、84でも、敗戦国民の私が運転していても、3Aに乗るアメリカ兵が道を譲ってくれたりしたものである。

民主主義、自由主義といえども、偉い人達の権力を示すエピソードを紹介しよう。ある日の深夜、ワシントンハイツ(現代々木公園)の将校クラブで深酒をしたスチュアート伯父さん、千鳥足で基地内を走っていたら、警邏中の黒人MPに停められた。

その時スチュアート伯父さん少しも慌てず「君が生まれる前から呑んで運転している、心配することはない、不審と思うなら此処に電話してごらん」と番号を教えた。

ひとにらみしたMPは、近くの電話ボックスに入った。出てきたMPは「貴方は酔っていませんが?家まで送るよう云われました」

「赤灯点けたジープ先導、僕の車をMPが運転、後席で寝てたら材木町の家だった」。後日、私も一緒にオフィサーズクラブに行った時のこと、偶然に電話の主に会った。

「お前が停めた奴は俺より偉いんだ、くだらんことで夜中に起こすな」と間抜けなMPに云ってやった・・・と大笑いしていたのは、憲兵隊司令の大佐だった。

こんな事もあった。六本木の憲兵事務所に私を連れて行き、奥の偉そうな兵隊に何か一言云うと、即座に私の免許証を造ってくれた。で、その後は、一人で3A84を乗り回せるようになったのである。

カイザーは、フォード、プリムス、シボレーなど一連の大衆車よりちょっと大柄な4ドアセダンで、直列六気筒サイドバルブ・3600㏄・100馬力。3MT。前輪Wウイッシュボーン、後輪リーフリジッド、四輪ドラムブレーキ。タイヤ670-15-4p。車重1469㎏。というのが諸元である。

カイザーフレイザー社は、53年にウイリス社に吸収され、55年にはブランド名が市場から消えるという短かな一生だった。

58年、スチュアート伯父さんは、新車買い換えのためカイザーを処分した。若い兵隊が「貧乏だから安くしてください」と云う。「いくら持ってる?」と聞いたら「50ドル」。50ドルは当時の為替レートでは、1万8000円だった。

タッカー:アメリカでは珍しいリアエンジン後輪駆動だが、革新的な安全対策が、老舗自動車メーカーには目障りで、老舗メーカー、議員、役所連携の悪巧みで潰されてしまった