【車屋四六】ランチェスターで泥沼人生に

コラム・特集 車屋四六

「何時から自動車評論家になったの」
「何故、物書きになったの」
耳にタコができるほど聞かされた質問である。

私自身は、評論家とは思っていない。

評論家とは、私の知識見識のレベルで勤まるほど簡単なものではないからだ。単に、意見を述べ、リポートをし、時によっては物語を書くのが私の仕事だから、職業としてはライターが良かろう。

1970年代からだろう、カー&レジャー紙に原稿を書くようになったが、いよいよインターネットにページを持つことになったので、とりあえず上記の問いに答えておこうと思う。

始まりは、横着な?雑誌記者の来訪だった。「貴方が書いて下さい」と、50枚綴りの原稿用紙を渡されたのが、事の始まり。

「珍しい車お持ちのようですね」

多分、1963年(昭38)頃だったろう。モーターマガジン社の菊池編集長から、仕事場に電話があった。

当時私は、脱サラして丸の内をとびだして、友人と茅場町で給油と修理の二本立ての”カブトオートセンター”をやっていた。取材目的は、私の英国製ランチェスターである。

カブトオートセンター:茅場町市場通りに友人と開業した給油&修理工場

その頃の乗用車というものは、大臣、高級官僚、大会社の経営者、ごく一部の金持ち、羽振りの良い芸能人達が持ち主で、登録された日本中の乗用車が、全部で数万台という時代だった(数十万ではない)。そんな中でランチェスターは特に珍しい存在で、これまでに博物館以外で、他のランチェスターに路上で出合ったのは、たった一度だけだった(自動車評論家でも若手ならランチェスターを知る者は少ない)。

JMC(日本モータリストクラブ)と呼ぶクラブが誕生した。入会は簡単、60年頃だったと思う、ポストに投函された入会申込書を、返送しただけ。入会金も会費も無しなのに、立派なカーバッジと会員証が届いた。

JMCの目的は、日本のACN公認が目的で、設立された団体だったようだ。その頃、未だJAFは存在しなかった。

ACNとは、モータースポーツを統轄する団体で、一国一団体がFIA(国際自動車連盟)により公認されるものでである。

会長の木村正文は、よちよち歩きを始めた日本の車社社会の将来に、モータースポーツがあることを見抜いていたようだ。

やがて会報”JMCクラブ”が郵便で届いた。中の珍しい車の持ち主というコーナーで、ランチェスターに白羽の矢が立ったようだ。菊池編集長の電話は、その記事を見てのことだったようだ。ちなみに木村正文会長は、自動車専門紙、日刊自動車新聞の社長で、モーターマガジン社の木村襄司社長は正文氏の三男だから、私の情報は簡単に伝達するはず。

余談になるが、木村一族は兄弟たくさんで、その活躍は広範囲に及んでいる。

ゴルフダイジェスト誌の木村社長は正文氏の御子息。たしか東名カントリークラブも関連企業。日本のシャンソンを育てた銀座の”銀パリ”では、今でも高英男や丸山明宏が慕う木村実子さんが腕を振るっていた。地下鉄日本橋地下街の”室町茶寮”、また麻布霞町(西麻布)のウエスタン風酒場”タイムトンネル”は弟の木村五六さん。その他”観光新聞”とか経済面の業界紙、不動産業など、手広さは呆れるほどだった。

さて前置きが長くなったが、本題に入ろう。カブトオートセンターを訪ねてきた記者は、お定まりの根ほり葉ほりの質問を浴びせかけてきた。一時間も話し込めばうち解けてくるもので、工場に出入りする車の品定めをしながら「あそこのジャガーの持ち主を紹介して下さい」それも私のMK-VIIだった。ちゃっかり次号のネタにしようという魂胆だったようだ。

「こんなに楽しい取材は滅多にない・貴方は車に詳しい・勉強させてもらいました」と、褒められて喜んだのが運のつき。「貴方自身で書いた方が面白くなりそうだ・思いつくままに書いて下さい」。鞄から原稿用紙を出して帰ってしまった。

恥ずかしながら、私の小学校時代の”綴り方”の点はひどいもので、通信簿に甲が付いたことはなく、国民学校に改名後も、優が付いたことは一度もなかった。

ちなみに、昭和16年入学時の尋常小学校は、WWⅡ(太平洋戦争)開戦後に国民学校と改名され、成績の採点は、甲乙丙から優良可に変わったのである。

綴り方に甲(優)不在の私が記事を書く。「えらいこと引き受けてしまった」と悔やんだが、あとの祭りだった。

仕方なく、清水(きよみず)の舞台から跳び降りた。が、読み返すほどひどい文章で、何度も書き直しているうちに締め切り日が来て、恥を忍んで渡してしまった。

やがて掲載紙が届いた。印刷された記事を怖々見ると、それほどひどくはない。

「俺の文章まんざらではないではないか」。少々自惚れたのが運の尽き、それから少々の時が流れ、気が付いたらモーターマガジンに、毎月、試乗記を書いていた。

初めての試乗記は、誕生したばかりの、いすゞベレットだった。それで、自動車評論家と偉そうに呼ばれるようになる、新米”物書き屋”が誕生したのである。

その頃、日本の自動車環境は発展途上国だから専門誌も少なく、当然書く奴も少ないので、ひどい記事でも通用したのだろう。聞くところによれば、小林彰太郎がカーグラフィック(二玄社)に去った穴埋めだったようだ。「下手でもどんどん書かせりゃ何とかなるだろう」くらいだったのだろう。

その頃書いていた、池田英三、高岸清、佐藤健司、等々、皆故人になってしまったが、園部裕は初めてあった時に「僕は評論家じゃない写真家だ」と強調し、貰った名刺の肩書きには、日本写真家協会会員とあった。

遙か昔だが、能役者は歌舞伎役者を馬鹿にした。WWⅡ以前には以前には歌舞伎役者が映画に出ると舞台には戻れなかった。TVが始まった頃、映画俳優はTVに出たがらなかった。

価値観は時代と共に変わっていくもので、よちよち歩きを始めたばかりの自動車環境では、歴史ある写真家の方が、自動車評論家より格が上ということだったのだろう。

いずれにしても、それまでは希望に胸を膨らませ、金持ちを目指していた実業家の卵の人生は、たった一台のランチェスターを持ったお陰で、大きく曲がってしまった。曲がった先には泥沼もあったが、やりたい放題、云いたい放題、今では曲がってしまって良かったかな、と思っている。

ランチェスターの詳細については、次回で。

ジャガーMK-VII 1953年型:市場通りの路面はひどかった。グリル右上にJMCカーバッジ