【車屋四六】ランチェスターのオーナーに

コラム・特集 車屋四六

「掘り出し物だ!安いよ」

突然電話をくれたのは、芝赤坂界隈にたむろする猪俣さんだった。

昭和30年代、日本の経済は朝鮮戦争の特需景気で少し上向いてはいたが、敗戦の後遺症はまだまだで、貧乏から抜け出せないでいた。

当然、政府の懐も苦しく、外貨不足だから、日本人向け外車輸入は御法度だった。

が、全く買えなかったわけではない。在日米軍軍人軍属とその家族、大公使館&領事館、在日許可を持つ第三国人達が二年間使用した車は、通関手続き後に登録することが出来たのである。

だから、日本人の新車は、三年目を迎えた中古車ということであった。

何故か東京では芝赤坂界隈に、そんな車を輸入販売する会社が集まり、ブローカー達がたむろするようになった。ブローカーにも色々あって、一流企業が得意先で高級車を世話する輩もいれば、安い車専門も居て、猪俣さんは高級車が苦手な、気安く付き合える一匹狼だった。

「たった五万円だヨ」と云う安さの秘密は、「運転が難しくて運転手が逃げてしまうんだから」ということだった。

その頃は大卒初任給が一万円ほどの時代だから五万円でも大金だが、アメリカでは大衆車のフォードやシボレーでも、日本では大卒初任給の二百数十ヶ月分ほどがスッとぶのだから、たしかに安い買い物だった。時代遅れのダットサンや、国産化したばかりの日産オースチン、いすゞヒルマンでさえ、百ヶ月前後が必要だったのだから。

ランチェスターは、未だ株式上場前の、不二サッシの自家用車だった。

友人の車で、不二サッシへ。

五反田から中原街道に入ると、道幅は広いが路面の舗装に穴が開いたりで乗り心地が悪くなる。中学時代にボート遊びをした洗足池を右に見て、多摩川丸子橋を渡れば、そこら辺りは学生時代に先輩に連れていかれた、綺麗なオネーさん達が居る新丸子の三業地。新丸子を過ぎると、自動車が通る真ん中だけが舗装され、両側は土のままというお粗末な道になる。走る道の両側は未だ畑だった田園風景を眺めながら、武蔵小杉の大きな交差点の左手前角が、目的の工場だった。

「本当に買ってくれるんでしょうね」

不安そうな顔の担当者の案内で着いた車庫には、モスグリーンのランチェスター1953年型が、埃を被り後ろ向きに置いてあった。

「危ないから後ろに立たないでください」。おかしな事を云うなという謎は、直ぐに解けた。

長いこと放置して埃が積もったランチェスターが、セル一発で始動。調子いいじゃないか、と喜んだのも束の間、いきなり車庫から飛び出し、立木にぶつかって停まった。不思議だったのは、衝突して停まったのに、エンジンは調子よく回り続けている。

「すみません一万円引きますから、何とか引き取ってもらえませんか」。くの字に曲がったバンパーの前で、泣きっ面の担当者に金四万円也を払って、ランチェスターは私の自家用車になった。

それから10年ほど後に、ロンドンで合ったジャーナリストに「ダイムラーは英国最古の…」と云ったら、即座に否定された。英国ダイムラーの誕生は1896(明治29)年で、フレデリック・ランチェスターの車の誕生は、その一年前だと教えてくれた。そんな英国最古のメーカーは、31年になるとダイムラーの傘下に入り、やがてダイムラーもジャガーの傘下に入るのだが、53年型は未だダイムラー時代のものである。

初めて運転席に座りよく見ると、チェンジレバーがないが、ハンドルの奥に上下する短かなレバーがあって、根元の扇型プレートには4・3・2・1・N・Rとあるのに、ペダルは常識通り三個並んでいる。一見オートマチックのようだが、クラッチペダルがある…変な車だと思った。が、とにかく乗って帰らなければならない。

ダイムラー・ストレートエイト・リムジン1953年型:宮内庁所有。直列八気筒+プリセレクタードライブ

ボディー色とコーディネイトされたグリーンの本革シートに座り、先ずクラッチを踏み切ってレバーを1に入れ、少しアクセルを踏み、クラッチを繋いだら、猛然と跳びだし慌ててブレーキ一杯。

こんどは、ゆっくり、用心深くクラッチを繋いでみたが、結果は同じ。これで判ったことは、半クラッチがまるで効かない、故障車だということだった。

幸いなことに、グローブボックスからオーナーズマニュアルを発見。で、ランチェスターの変速機が、小生初体験の「四速プリセレクタードライブ」と呼ぶ特殊な物だと判った。現在のATと同じプラネタリギア(遊星歯車)+フルードカップリング(流体継手)だが、自動変速ではない。

クラッチペダルと思ったペダルには、ギアシフトペダルと書いてある。

現在のATは自動的に油圧回路を切り替えてシフトするが、こいつは足で蹴飛ばして油圧回路を切り替える仕掛けだった。言うなれば、ATの元祖的機構だったのだ。

これだ!と理解したら、じゃじゃ馬は、見事に大人しくなった。故障車ではなかったので、ホッとした。

短時間で会得した運転方法は、先ずブレーキを踏み、レバーを1に→ブレーキは踏んだままで、シフトペダルをポンと踏み・放す→ギアは1速だが、フルードカップリングの効果でエンストせずに、エンジンは回り続けている→ブレーキをゆるめればクリープ現象で前進、アクセルを踏めば普通に加速する。

加速しながら→レバー位置を2→行き足がついたらシフトペダルをポンと踏み・放すと二速に入る・・・以下同様に、3→4でトップ走行に入る・・・減速は、その逆操作。

慣れてしまうと、まことに快調。神経を使う半クラッチ不要、坂道発進も車庫入れも気楽なもの、変速ショックまるでなし、特に渋滞でのノロノロ運転が楽なこと。停車中でも、走行中でも、希望ギアにレバーをセット、好きなタイミングでポン・・・このように事前にギアを選んでおくから、プリセレクタードライブと名付けられたのである。

このプリセレクタードライブは、F.ランチェスターが開発、登場が20世紀初頭というのだから長生きだが、半クラッチ無しでスムーズな運転という特技で、やんごとなき人達がパレードするの車には最適。ということで、長いこと英王室御用達のダイムラーに装備されて活躍した。

平成天皇が皇太子の頃、エリザベス女王の戴冠式に出席した時に英国から持ち帰った1953年型ダイムラー・ストレートエイト・リムジンも、プリセレクタードライブだ。

WW2後のダイムラー社は、ダイムラー、ランチェスターを生産したが、ランチェスターには、私のマイカーになったレダと、ひと回り大きなドーフィンがあり、赤坂の日英自動車が輸入販売をしていた。

後年イギリス自動車業界の整理統合が始まると、ダイムラーはジャガーの傘下に入ることになるが、ランチェスターはそれ以前、56年に最後の出荷をして、半世紀にわたる歴史の幕を閉じた。

ATのバルブボディー:十数年前のメルセデスの物。現在の自動変速機は、こんな複雑な回路での油圧制御が必要。50年代までこのような技術はなかったATのバルブボディー:十数年前のメルセデスの物。現在の自動変速機は、こんな複雑な回路での油圧制御が必要。50年代までこのような技術はなかった