【車屋四六】ベストドライバーコンテストを知ってるかい?

コラム・特集 車屋四六

昔「ベストドライバーコンテスト」と呼ぶイベントがあった。全部云うと面倒なので、ベスドラで通用するようになるこのイベントは、鈴鹿サーキットで日本グランプリが始まる2年前の1962年に始まり、それから10年後の71年まで毎年開催されたビッグイベントだった。

62年というと昭和37年、太平洋戦争が終わって17年が経ち、日本経済もどうやら立ち直り、そろそろ自家用車時代到来かという頃だった。

敗戦貧乏も何処へやら、「ハイそれまでよ」とか「スーダラ節」などを流行らせた植木等の“日本無責任時代”という無責任な映画が人気で、“肉体の市場”と題した日本で初めてのピンク映画さえ登場した頃で、戦前の良きしきたりや習慣が、日々消えていく時代だった。

そんな時代を迎えて、身近になってきた自動車での楽しみ方、また厳しさも判らせようという、イベントにはそんな含みがあった。

というわけで、主催者側の顔ぶれが、超一流だった。

報知新聞社、読売新聞社、警察庁、警視庁、全日本交通安全協会、日本自動車連盟、グッドイヤー社、パンアメリカン航空、シェル石油、現在こんな豪華な顔ぶれを揃えることは先ず難しかろう。

コンテストは、東京、九州、関西、北海道と全国地区予選があって、その上位者が東京は小金井にある自動車運転試験場での最終試験にチャレンジする。

私が挑戦した東京地区の予選は、夜中の12時にスタート、山岳地帯を含めて翌日の10時頃にゴールという、かなり本格的なハイスピードラリーだった。が、それだけでは終わらず、全車がゴールすると、かなりシビアな車庫入れや縦列駐車などを含む、変則だが難しいジムカーナが待っていた。

日を改めての小金井では、地区予選を勝ち抜いた強者共が、難しい顔をした老練試験官を三人も乗せての実地試験が待っている。大型車で試験場のクランクをバックするのは「こんな所を通れるとは思わなかった」と試験官が云うほどの難関だった。

その時の車は、左ハンドルのボルボだった。珍しい外車の左ハンドルなら、腕自慢も手こづるだろう、の配慮だったと後で聞く。が、実を云うと、本当に難しかったのは、遙か昔に習った教習所式運転法が、長年の街乗りで崩れ、忘れてしまったから、正しい運転方法を採点されることだった。

運転試験が終わると、次が論文である。

黒板にテーマが書かれる。ハイとの掛け声で、一千字に指定された論文を1時間以内に仕上げる。こいつが意外と難しく、私を除く全員が苦労していた。

私は、この時既に物書き家業だから、初めの一行を書き始めれば、起承転結、流れ作業のように苦もなく終わったところが最後の行といったところで苦労はなかった。また、滅多にないボルボも、当時二足のワラジを履く片方が自動車修理とガソリンスタンドだったから、客のボルボで慣れていた。

こうして難関を突破して優勝すると、グッドイヤー、パンアメリカン後援にふさわしい、副賞の海外派遣が待っている。

日本一などという栄冠より、参加者の憧れは、誰もが副賞の方だった。

大卒初任給が2万円に届かず、一ドル360円の時代、ロンドン往復航空運賃は54万円もしたから、海外旅行などは夢のまた夢、という時代だったのだ。

写真は65年の北海道地区予選、ラリー出場の車。ブルーバード(64年)、コロナ(64年)、スカイライン1500(63年)フォード・タウヌス。更にルーペで見ると、クラウン(62年)、ベレット(64年)、三菱コルト、スバル360、ヒルマン、ダットサン、VW等々が見える。(カッコ内発売年)

建物には札幌パークホテル、左の木造二階建てには札幌高等電波専門学校の文字が見える。北海道とはいえ、とにかく市内目抜きのホテルの前に、こんな土の広場があった時代だった。

第一回の優勝者は、自動車評論家として活躍した故池田英三。第二回・田中豊三郎、第三回・江原達治、第四回・松井英雄、そして第五回が私だった。

優勝して報知新聞に掲載された

池田英三は、副賞でイギリスに行って、ジムラッセル・レーシングスクールで、ドライビングテクニックを勉強したのが人生の転機で、折から始まる鈴鹿のレースに知識を買われてトヨタにアドバイス、以後トヨタ派の人と誰もが思っていたが、実は、優勝した時はダットサンクラブ所属だった。

松井英雄は、赤坂で大正12年創業の老舗鰻屋、ふきぬきの息子だった。

江原達治は知る人ぞ知る東宝の二枚目俳優。優勝した頃は、加山雄三主演の「ハワイの若大将」に出演していた。

ベスドラの最終回は71年だが、64年に鈴鹿からモータースポーツの火の手が上がり、私が優勝した66年に、大衆車普及の立役者となるサニーやカローラが誕生した。それから五年が経ち、マイカー族に自動車の初歩的楽しさを、またドライブマナーを教える時代も終わり、役目も終わったとして、10回目を最後に幕を閉じたのである。

67年度最終審査の小金井試験場で歴代優勝者の記念写真。右から青木、江原、田中、松井、池田、左端は当時の安田試験場長