三輪貨物自動車の生みの親はダイハツだった

コラム・特集 車屋四六

かつて日本は三輪車王国だった。それは戦前→戦後の昭和30年代頃までのこと。ちなみに戦争とは、米国・英国・オランダ・支那・最後にソ連を相手に5年間も戦い破れた太平洋戦争のこと。

もっとも国産三輪車のルーツは、1918/大正7年に大阪の実用自動車で米人ゴルハム設計{ゴルハム号}発売が始まり。後にそれを日産が買い取ったから、さしずめ国産三輪車の元祖は日産である。

その後、日本の三輪車は忘れられた存在となるが、1931/昭和6年に貨物自動車として突如甦った。もっとも国産三輪貨物車は、それ以前にもあった。舶来オートバイの後輪を二輪にして、間に荷台をという常識的発想で生まれたが、舶来は高いことから日本製が登場するが、難しいエンジンだけは舶来だった。

■純国産三輪貨物自動車「ダイハツ号」

それにカチンときた会社があった…明治40年創業の発動機専門メーカー、発動機製造(株)で、空冷単気筒500ccを開発する。が、性能がよいのに、さっぱり売れない。今でも日本に残る舶来至上、当時も日本製に対する不信感で「日本製?駄目だよ」だった。

で「駄目なら丸ごと造れ」とばかりに誕生したのが、純国産三輪貨物自動車で{ダイハツ號}と命名された。義理か好奇心か、ダイハツ号を使った人が「こいつは良い」との評価で、暫くすると日本製三輪車は、大手を振って歩けるようになる。

1937製ツバサ號:好評なダイハツ號は共同生産の日本エアブレーキ製がツバサ號。シフトレバーやラッパ型ホーンが見える。ダイハツ開発のプロペラシャフトとデフ駆動で操安性耐久性が向上。

考えてみれば、部品寄せ集めの町工場製と異なり、立派な工場で一貫生産されるのだから当然品質が良く、使い勝手も耐久性も良いのが当たり前だった。

近頃、街にはカタカナがあふれているが、太平洋戦争前、私が子供の頃もカタカナはハイカラで、自動二輪はオートバイだったし、三輪貨物はオート三輪だった。余談になるが、単気筒が発するやかましい音で{バタバタ}地方では{バタコ}なる愛称も生まれた。

バタバタは立派な工場製になって流通の花型になる…小回りが効き運転簡便、低維持費が人気で、小規模運送業者、商店では自家用車として、多方面に進出して一世風靡する。

同じツバサ號だがコイルスプリングの前輪緩衝がリーフスプリングに変わっている。フレーム構造も変わっているが日本エアブレーキの改良か。

当然メーカーの数も増えるが、支那事変から太平洋戦争に突入すると、商工省といっても陸軍主導だったようだが、三輪メーカーは、ダイハツ、東洋工業、日本内燃機の三社に集約させられる。

が、戦争中は物資不足で生産量激減。稼働中のバタバタもガソリン不足で、登場するのが木炭車だが、やがて木炭も不足して薪になり{代用燃料車・代燃車}と呼ぶようになる。

そして終戦を迎えると、流通の寵児として一気に元気を取り戻すが、トヨエースの登場で息の根を止められ、三輪メーカーは市場から去り、一部は四輪メーカーとして生き残ることになる。

戦時中:1942年型の東浦式木炭車1280cc:釜と並立するのは釜の吸気パイプ・下のパイプ二本は燃焼室に送るガスの冷却器。見えないがガスから炭塵除去のフィルターも装備。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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