【車屋四六】横綱御用達のテントウ虫

コラム・特集 車屋四六

スバル360を日本の名車と云っても、苦情は出ないだろう。

WWII以後、負けた国ばかりでなく、戦勝国も戦場になったヨーロッパでは経済復興優先で、雨後の筍のように、軽自動車が誕生した。が、世の中落ち着けば、一時しのぎ的軽自動車の生き残る道はなく、淘汰が進み、やがて消滅していったが、日本だけで軽市場が生まれ育っていったのである。

そんな生き残りの切っ掛けになったのが、スバル360だった。もちろん軽自動車の量産と云うことでは、昭和30年登場のスズキ・スズライトが先輩だということは忘れないで欲しい。

小粒ながらスバル360は、航空機技術の粋が集められた作品だった。まず、貧弱なエンジンで高い性能を得るため、軽量車体が必要不可欠だったが、こいつは飛行機屋得意のモノコックボディの採用で切り抜ける。

完成したスタイリングは、卵形だった。ヘンな形だと思ったが、考えてみれば、何十年か後にもてはやされる、エッグフォルムというやつだったのである。

大人4人と荷物が本当に載るのだと納得させるために作られたイラスト

戦争中、中島飛行機のエンジン工場だった三鷹工場で開発された、二気筒空冷二サイクル360㏄の性能は、4500回転で、たった16馬力(3.6kg-m/3600rpm)しか得られなかった。

16馬力では、いくら小さな軽でも快調に走らせる力はない。もちろん他の軽メーカーも、それが悩みの種だったが、当時の日本の技術水準では、これで目一杯という感じだった。

だから、軽自動車に乗るということは我慢が必要で、技術水準が高く日本より高出力が出せるヨーロッパでも消えていった理由が、この我慢という部分だったのである。

が、スバル360が消えなかったわけは、小さくはあったが、まがりなりにも我慢の部分を排除していたからなのだ。それが、取りも直さず、エッグフォルムがなせる技だったのだ。

たった16馬力でも軽けりゃ走る、というわけで、モノコックボディー、飛行機屋が云う「応力外皮」のお陰で、スバル360の重量は、わずかに385㎏に収められていた。

例えば、我が国初の本格的軽自動車、スズライトの車体重量は420㎏。スバル360の登場は1958年だが、同じ頃、正確には1959年登場の有名なダイハツ・ミゼットは、三輪軽ピックアップにもかかわらず、車重は415㎏もあったのである。

軽も含めて、小型から大型までの自動車、そして飛行機も、軽さというのは大きな武器となるのだ。で、日本一、いや世界有数の飛行機メーカーだった中島飛行機の技術者だからこそ、軽量化の秘訣ノウハウを充分に心得ていたのだ。

もっとも、世界一の戦闘機、隼や疾風、そして爆撃機などを作った技術屋も、自動車の知識はなく、一からの勉強では日比谷にあった米軍CIA図書館に通い、群馬県太田から写真屋を連れて行って、重要な文献をライカで複写させ、学習したそうだ。

このような苦労の末に名車スバル360は誕生したのだが、自動車の経験がない飛行機屋らしく、常識はずれな機構も気にせずに採用したものである。

が、アルミ材やプラスチック素材も気にせずに採用して軽量化。トーションバースプリングで車輪を車体四隅一杯に張りだして、居住空間を稼いだ飛行機屋の軽自動車が誕生すると、見慣れぬエッグフォルムの姿から、テントウ虫の愛称も生まれた。フォルクスワーゲンのカブトムシに対抗したのかもしれない。

「おい手を使わずにシフトできるぞ」と、ある日テントウ虫に乗ってきたのは親友の高田嘉七だった。今どきクラシックな彼の名には故事来歴がある。江戸時代の長者番付では紀伊国屋文左衛門より上位の高田屋嘉平。函館の山の上に大きな銅像がある大商人だが、その七代目の孫が彼なので、嘉七なのだ。

取り敢えず彼のテントウ虫に乗ってみた。テントウ虫は初めてで、ギアシフトが出来ない。で、聞いてみると、前進三速型のシフトパターンが横向きのHなのである。

このあたり、まさに飛行機屋の非常識丸出しの部分だった。が、慣れてくると、右から左方向にシフトの時は、左足でシフトレバーを押せばシフト出来るのである。

話変わって、有名な写真を一枚紹介しよう。横綱・吉葉山とテントウ虫。ちなみに吉葉山の体重は150㎏、身長が180cm、よくぞ小さなテントウ虫に乗ったり、降りたり出来たものである。(写真トップ)

昭和30年代半ば、私は築地から新大橋に向かう市場通りの茅場町で、友人とガソリンスタンドと修理工場をやっていた。その頃、市場通りは地下鉄日比谷線の工事の最中だった。

私の店の前は鹿島建設の工区で、後に重役になる現場監督の清山さんが、見事な巨漢だった。ある日、ルノー4CVに乗ってきて、吉葉山のテントウ虫の写真を出して、こんな具合にならないかという相談だった。

吉葉山のテントウ虫は、シートの足を切って後方に固定したのだろうと推測して、もう元には戻らないことを条件に、外したシートの足を切り、シートスライドを延長、溶接、固定したら喜ばれた。

テントウ虫の誕生は1958年。確か42万円で、たちまち市場の人気者になり、1967年にホンダN360が30万円で登場するまで、市場の王座に坐り続けたのである。

日野自動車がライセンス生産したルノー4CVは、スバル360より一回り大きいとはいえ、改造して横綱に引けを取らぬ清山さんが乗り込む姿に我ながら感心したものだった