アメリカで人気が高いアコードの誕生は1976年5月だが、2月にアメリカ上院でコーチャンという人が、ペラペラ喋ったことからロッキード事件が始まった。
7月田中角栄首相逮捕で元気満々の田中内閣が消滅して、暫く経った或日、軽飛行機パイパー160馬力が調布空港を離陸した。
パイロットは前野光保。旧日本軍の特攻隊員と同じ飛行服に飛行帽と眼鏡といういでたちで、事件の黒幕と噂の児玉誉士夫宅に、そのまま突っ込み、自爆炎上し前野は死亡した。が、児玉は無事。
事件に義憤を感じた俳優前野が、特別攻撃隊を自作自演、役者人生の最後を飾ったものだった。
初代アコードは、二ドア・ハッチバック型で、シビックをベースに開発されたもの。高級感あるスタイリングとキャビンのゆとりで、シビックより、一クラス上のユーザーをターゲットにしていた。(写真右:箱根の報道試乗会でのアコード。未だドアミラー時代、運転席側Aピラー内蔵アンテナは走行中手が届くので便利だった
)
アコードは、基本がシビックだから、1600型エンジンの横置きFWDという形式もそのまま、パーツの流用でコストダウンし、またメンテの点でも安心感があった。
77年10月になると、四ドアセダン(126万円)を追加。
ちなみに二ドアの方は、EX・5MT=112万円で、おおよそシビックより、20万円ほど高い設定だった。
参考迄に、二ドア・ハッチバックの諸元は、全長4125㎜、全幅1620㎜、全高1340㎜、ホイールベース2380㎜。車重860kg。
水冷四気筒OHC・1599cc・80馬力だったが、後に登場する1750ccでは90馬力へと向上する。
5月発売のアコードは好評で、6月6000台、7月8500台、8月6500台と、好調な滑り出しを見せた。
当時、永六輔の面白いエピソードが生まれた。メートル法完全実施に抗議したものである。
尺貫法併用を主張する永六輔は、大量の物差しを用意して、何かのイベント会場で、来場者に3000本を売ったあとで「さあ逮捕してくれ」と盛岡警察に出頭自首した。
有名タレントだけに扱いに困り果てた警察が出した結論は「これは商行為ではない・ショーだった」として逃げた。
そんなことではへこたれない永六輔は、京都市内の交番脇で販売したが、これも「今日は縁日」と相手にしてくれなかった。
悪事に目をつぶり逃げてしまう、結果は愉快だが、弱者は罰し強者は見て見ぬふりをする日本の典型的役所スタイルは、今もって健在。昔のオ巡りさんには臨機応変、時には武士の情けなども感じたが、近頃は情け容赦なく、点稼ぎノルマ達成と云う感じもする。
80年、アコードはパワーアップ。ホンダ独特のCVCC方式で53年排気ガス規制クリアのエンジンに、触媒とEGRがプラスされて、1750ccから95馬力を絞り出せるようになった。
で、1600と較べて、最高速度が10㎞ほど上昇、160㎞をマークしたと、試乗記で報告している。
この原稿をリメイクしている2013年、長いこと為替の目減りで困惑していた自動車業界は、80円台の円高から90円台円安に転じて息を吹き返し喜んでいるが、アコードがマイナーチェンジの78年に、円高で200円の大台を割り込み、199円80銭で大騒だったのを思いだした。
それが今では、80円台から90円台にという円安で喜んでいるのだから、世の中の変わり様は著しいものである。