【車屋四六】ジェミニはドイツ生まれ

コラム・特集 車屋四六

以前、72年ガム島で横井庄一軍曹発見を紹介した。28年もジャングルに隠れ住んだ話し、これで終わりと思ったら、二年後の74年に未だ続きがあった。
中野学校で鍛えられた筋金入り情報将校、小野田寛郎少尉が、フィリピンのルバング島で孤軍奮闘を続けていたのである。

そんな74年に、いすゞから登場したのがジェミニ。
いすゞは70年に、世界の巨人GMと手を結び、GMの世界戦略車としての日本向けがジェミニだった。だからジェミニの母体は、ドイツ・アダムオペル社開発の小型車ということで、カデットのコピーと云われた。が、エンジンはいすゞで開発されていた。

カデットは世界戦略車らしく、アメリカではシベット、イギリスではボクスホールと呼ばれ、各地で生産販売された。ちなみに、オペルもボクスホールもWWⅡ以前からのGM現地法人。

またオーストラリアのGMホールデン社は、いすゞからの部品を組み立てるノックダウン方式で、登場したホールデンジェミニは好評で、豪州カー・オブ・ザ・イヤーを受賞、ベストセラーになった。

カデットというブランドは、ヨーロッパでは著名な存在で、誕生がWWⅡ以前にさかのぼる1936年。日本が金メダル六個を稼いだベルリンオリンピックの年。
カデットとは士官候補生。オペルは、カピタン=大尉、アドミラル=大将、コモドーレ=提督など、海軍の階級名を使っていた。

オペルのカデットは大衆車だから、敗戦後の復興期に好適なのに登場しなかった。ドイツ進駐のソ連軍に工場丸ごと持ち去られてしまったのが原因である。
工場はソ連で再建されて、やがて登場するのがモスクビッチ(モスクワっ子)だが、その姿は誰が見ても戦前のカデットだった。

復興時好適な大衆車がないオペル社は、戦後の再建はやむなくカデットより一クラス上のオリンピアでスタートする。
WWⅡ後、カデットの名が甦るのは63年で、ちょうどオペル社創業100周年の年だった。

オペル社の歴史をさかのぼると、初期にはヨーロッパ一のミシンメーカーで自転車でも有名、自動車も戦前ヨーロッパ一でもあった名門老舗である。

78年登場の二代目ジェミニは日本で好評。欧州車らしい実用優先の車造りに加え、憧れの舶来の匂い満々+コストパフォーマンスが高い欧州気質がユーザーに通じたからだろう。

当時の日本流は、大好きなアメリカ車の姿をミニチュア化したものだから、当然のこと使い勝手に難があるが、ジェミニは背の高さで稼いだ広いキャビン、感心するほど大きなトランクと、いわゆる“つう”が好む要素を備えていた。

ジェミニは76年、51年排気ガス規制クリア、77年53年規制クリア、とエンジン技術も進化させながら、79年にはDOHCとディーゼルを送り出す。
このディーゼルが傑作で、発売翌年には、売り上げた5万5818台のうち、実にディーゼルが4万1308台という人気者になる。

我が愛車4ドア・ディーゼル/AT:室内広くゴルフバッグが楽に入るのがお気に入り。音静か加速良好、同等車より燃料費6割減で喜ぶ

やがて二代目ジェミニ引退で三代目になるのは85年。80年頃撮影の二代目ジェミニの写真撮影は調布空港(写真トップ)。
旧日本陸軍の格納庫は、何時崩れるか判らないから飛行機は入れるなと云われるほどボロボロ。屋根上の管制塔は強風の日には管制官が逃げ出して無人になり、わたし達パイロットはノーコントロール状態で離着陸していたのを、懐かしく想い出す。