ラウプフロッシュとは雨蛙だった

コラム・特集 車屋四六

ドイツの名門オペルは、WWⅡの敗戦からはオリンピアで甦り、WWⅠではラウプフロッシュで甦った。明るい緑色塗装からラウプフロッシュと呼んだが、日本語なら雨蛙である。

傑作雨蛙誕生の1924年/大正13年は関東大震災の翌年。路面電車壊滅で急遽市民の足は円太郎バス。急発注のT型フォード800台のバスは、罹災後の人手不足でワンマン運転なので、釣り銭勘定面倒と一区間10銭という乱暴設定。また陸軍が震災で失職した路面電車の運転手を短期速成したので事故続出だったという。

WWⅠ以前のオペルは欧州のトップメーカーで、その前は自転車で、ミシンで、いずれもトップメーカーだった。そしてその頃の経営者ウイリアム・フォン・オペルは将来に備えて、戦前に渡米してフォードの流れ作業を学んでいたから、雨蛙も当然のように流れ作業で量産体制を敷いていた。

最新流れ作業で生産される雨蛙は当時としては驚くべき量産で一日25台。その一日分をサーキットに並べブラスバンド演奏で行進する祝典PR写真。

で、生産を始めた雨蛙は、当時としては驚異的生産スピードで、日産25台というハイペースに世間は感心したのである。
雨蛙は、全長3200×全幅1350×全高1650㎜の二座席幌付ロードスター・車重570kg・直四・951cc・12~14馬力/2400回転・最高速度60㎞。雨蛙は通称で正式には4/12馬力。

コンベアー生まれの雨蛙は順調なスタートを切ったが、思わぬ横槍が跳び出した。シトロエンの提訴…理由は「当社のベストセラー5CVそっくり…字が読めない客は間違える」だった。

これによりオペルがシトロエンと戦うには、裁判所に積む補償金10万マルクが必要だったが、敗戦国の企業には巨額な負担だった。が、裁判の結果は「5CVは黄色でラウプフロッシュは緑…誰が見ても間違えるものではない」で、無罪放免となった。

もっともオペルは、敗戦後も資金力を保持していた。戦前に輸出で稼いだ利益を現地にドル預金。で、戦勝国の預金だから目減りせず、ドイツのインフレなどクソ食らえだったのだ。

このインフレで25年には大量の会社が倒産するが、オペルは大量の最新鋭工作機械を揃え、量産工場を完成、世間の不況を乗り切ったのである。

そして、オペルは再び欧州一のメーカーに返り咲くのだが、好景気をよそに、多額の投資が同族会社では負担になり、GMが登場して今日の形態が生まれるのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged