戦前戦後の車の変遷5

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太平洋戦争には負けたが、戦後50年間の日本自動車産業の発展には目を見張るものがあるのは御承知の通りだ。
政治家を筆頭に役人や経営者の「追いつけ追い越せ」を旗印に、遮二無二に働いた勤労者、親方に忠誠を誓う下請け集団等々、誰もが夢中に働き続けた結果がこんにちなのである。

1945年8月15日、負けるはずのない神国日本の敗戦で、日本は進駐軍の占領下に置かれた。敗戦国民には目の上のタン瘤だったGHQ/連合軍最高司令部は、日本が二度と戦争を起こせないようにと、軍需産業を主導した財閥や大企業を解体し、飛行機や自動車の製造を禁止した。

そんな状況が続き、ようやく乗用車の製造禁止が解除されたのが47年6月だったが、全面解除ではなく、許可されたのは1.5ℓ以下が300台というケチな台数だった。
が、この300台のスタートで、眠らされていた日本自動車産業が息を吹き返したのだから「ケチな台数」などとケチを付けてはいけないのかもしれない。

復活一番乗りは、早くも8月に出荷した日産。戦前小型車の代名詞的存在だったダットサンの治工具金型が倉庫に保管してあったのか、登場したダットサン号は、戦中の5年間をタイムスリップしたかのような姿だった。

ダットサンDA型/1947年:ステップがない所だけが戦後的斬新だが、ラジェーターグリルは治具が見つからず急造…が、後に見つかったようで懐かしい剣道の面のような姿が復活する。

こいつは終戦で兵器製造終了と同時に、倉庫から戦前の金型を出して復活した、欧米の新車と規模の差こそあれ、手段は同じだった。

同じ8月、飛行機が造れなくなった立川飛行機の有志が設立した、東京電気自動車から登場したのが{たま電気自動車}だった。
が、小型車の経験がないトヨタは?と専門家の心配をよそに、10月になるとトヨペットSAが登場する。

戦中からのガソリン統制が続く市場に対応したのが、たま電気自動車だが、軍に尻を叩かれ、短期開発には慣れた航空技術者達の得意面が生かされたようだった。

ダットサンは「乗用車とはこんな物」と戦前の姿をそのままに登場したが、トヨタのトヨペットSAは、戦後の開発だけに姿が斬新だった。

誰もが感心した、流麗デザイン姿のSAの開発を指導した長谷川龍雄も、元は航空技術者だから、空力には造詣が深く、戦前のリンカーンやVWビートルのイメージが頭にあったようだ。

いずれにしても、この3台の乗用車によって、戦後の乗用車生産の扉は開かれたのである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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