名門ダットサンクラブ東京

all コラム・特集 車屋四六

同好会的クラブは昔からあったが、WWⅡ以後の本格的組織は、日本スポーツカークラブ/SCCJとダットサンクラブ/NDCで、SCCJの前身は進駐軍のアメリカ人主体、NDCの前身は戦前型の愛好者団体オールドダットサンクラブだった。

SCCJとNDC創立は戦後10年の昭和30年/1955年。朝鮮動乱の特需景気で日本経済が上向きになった頃。55年には、トヨペットクラウンとマスター、ダットサン110、日産オースチンA50、フライングフェザー、スズライトSSセダン、オータPK-1が登場した。

愛車の前で記念撮影をするオールドダットサンクラブの会員達。セダン/オープン混在:ナンバープレートが横長。

大衆あこがれのアメリカ電化製品の国産化が始まり、家庭電化時代が訪れる。東芝電気釜2200円、電気毛布1万3000円、東通工/ソニーから世界初トランジスタ五石型ラジオが。そして翌年は「もはや戦後ではない」が流行語だった。

またクルマのナンバープレートが横長から矩形になり、車検場所在地と車種別番号、いろは一文字と登録番号で、上下二段型に。理由は不明だが、なぜか東京だけに車検場所在地の品川がなかった。

第2回全日本自動車ショーが日比谷公園で開催された55年4月結成の、オールドダットサンクラブの第一回行事は、奥多摩氷川までの親睦走行会だった。当時、日本の登録車は14万台ほどだから古いダットサンでもオーナーともなれば一握りのエリートだった。

が「クルマなくともダットサンが好きなら門戸を開こう」と発足後半年ほどで、10月にはNDCと改名=日本ダットサンクラブの名で再出発した。NDCというと、日産自動車後援の団体と思うだろうが、誰の援助も受けない同好者団体だった。が、昔東洋一の自動車販売業者といわれた東京日産㈱が、陰になり日なたになり応援してくれたが、その友好関係はその後も長く続いている。

最初のイベントは親睦走行会だったが、56年以降のNDCはラリーやジムカーナも開催する。その間SCCJと共催で本格的競技を開催してルールやノウハウを学習した。SCCJはアメリカ軍人から多くを学んでいたので、その面では先輩だったのだ。

日産追浜工場見学ドライブ会に集まったNDC会員のクルマが勢ぞろい/1956年1月25日:前からフェートン、セダンx2、210セダン、ピックアップ、ダットサンスポーツ、トライアンフメイフラワー等。ナンバープレートは矩形。
NDC主催ラリーのチェックポイント風景:通過証明を渡す競技役員と参加者のダットサンには古いNDCの楕円型カーバッジ/左はダットサン110型/場所不明…藤沢遊行寺の坂?

そうこうするうちに、日本モータースポーツの幕開けとなる鈴鹿の日本GP開催が迫り、SCCJ、NDC、ルノー4CVクラブ、105マイルクラブなどが中心になり、ノウハウや知識を持ち寄り、ルール作りなどと準備をしていった。

ちなみに日本GPで優勝した田原源一郎のフェアレディにスポーツキットをアメリカから贈った片山豊米国日産社長、JAFスポーツ委員長湊謙吾など、皆NDCの会員だった。

一方、NDC-○○というのが全国にあるのは、各地の日産車販売店の肝いり団体である…鈴鹿の日本GPで火が付いたモータースポーツ熱で一気に日本中に団体が設立される中、日産からの依頼をNDCが了承して誕生。NDCに地区名を付けたものだった。そして本家NDCは、NDC-東京を名乗るが、あくまでも独立した同好者団体を維持している。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged