大きいことはイイことだ

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1960年代、指揮者&作曲家・山本直純のCMソング、森永チョコの♪大きいことはイイことだ♪が日本国中を駆け回った。

さて、敗戦で打ちひしがれた貧困国日本は、朝鮮動乱のアメリカ軍の特需が景気回復の節目になり、右肩上がりの経済が始まった。その頃のアメリカは、戦勝と無傷の国土が相まって、世界の冨が集まったかのような好景気。クルマでは1950年前後に戦後型が出揃うと、姿が大きく派手に、大排気量強馬力の競い合いが始まった…まさに大きいことはイイことだアメリカ版の始まりだった。

が、右肩上がりが続いた日本とは裏腹に、ベトナム戦争の泥沼にはまって、クルマはデザインや品質が低下、加えて敗戦国のドイツ車や日本車の猛攻にさらされで、危機感を抱くようになる。

それはそれ、話を戻すと戦後の好景気を反映したアメリカ車は、朝鮮動乱で初登場したジェット戦闘機のイメージを取り込んだ50年代、後部に尾翼を付けた姿で、サイズと馬力で勝負という傾向に向かった。

クライスラー300のツラ構え/1955年:エンブレムはアメリカ車の象徴V8エンジンのVと300とチェッカーフラッグ。
ドでかいクーペらしく長いトランクは奥の荷物には手が届かなかった/当時としては比較的地味な尾翼を形作るテイルランプ/トランクリッドにも前と同じエンブレムが。

そんな55年に登場したのがクライスラー300だった。その300は、300馬力を象徴するネーミングで、当時強馬力を誇る米国V8群の中でも、アメリカ人もビックリの髙出力だった。当時、シボレーやフォードが160馬力前後、高級アメリカ車の代表格キャデラックでも250馬力だった。

さて、クライスラー300のV8 5420㏄は、56年の300Bで5798㏄・355馬力に。さらに57年300Cで390馬力。60年300Dでは6765㏄・400馬力。そして62年の405馬力で馬力競争に終止符を打つのは、ベトナム戦争の影響が出始めたからだろう。

アメリカ軍将校が2年使った300に乗ったら、左三角窓の柱にガタが来ていた。アクセルを踏みつけると驀進(ばくしん)するのが楽しく、そのたびに体が後ろに押しつけられるので、左手で柱を握り体を支えていたら緩んだのだというのだ。

私も皇居前の広い通りでやってみた。3速ATを床まで踏み込むと、キーッと後輪が悲鳴を上げて猛加速を始めた。背中に強いGを感じながらタイヤの悲鳴を楽しんでいると、消えた途端に2速にシフトアップして、またもや悲鳴を上げるのが楽しかった。

いずれにしても、ATなのに、強大なトルクのせいで、2速で二度目の悲鳴をあげたのは、ずいぶん乗ったアメリカ製乗用車でも始めてだった。

ク社の馬力競争はこの辺りまでだが、アメリカ車全体でも同様で、姿に魅力が失せ品質低下、ダウンサイジングが始まった。次ぎにアメリカ車らしい個性と品質がよみがえるのは80年後半まで待たねばならなかった。

リヤのフェンダーにも誇らしげに300の文字。

さて、冒頭の山本直純は、岩倉具視の側近で実業家山本直成が曾祖父という名家の出。直成の長男直正は与謝野鉄幹晶子の次女七瀬が妻。次男直良は牧場を夢見て50万坪の土地を買い、建てた自宅が軽井沢三笠ハウスで、その長男が直純。

そのご三笠ハウスはホテルになり、渋沢栄一、乃木将軍、愛親覚羅溥儀など政財界、軍人などの名士が訪れて、軽井沢の鹿鳴館と呼ばれた。ホテルは山本家から明治屋、戦後アメリカ軍に接収され返還後はホテルを再開。1972年日本長期信用金庫を経て、80年軽井沢町に寄贈された。

(車屋 四六)

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車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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