真似は上手の始めなり ダットサンとクロスレイ

コラム・特集 車屋四六

かつては韓国、近頃では中国と、コピー商品に目くじら立てる我々だが、小学生の頃に書道の先生が「真似が上達の近道」私の手本通りに書きなさいと教えられた。
「Imitation is the begining of the progress」進化は真似から、と知人の米国人が云った。無断コピーは先進国では御法度だが、発展途上国では真似が売るための安易な近道でもある。

現在は中国が世界から問題視されているが、日本もそんな時期があったのを忘れてはならない。
昭和30年頃、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンのコピーはライセンス生産だから合法で、その国産化100%達成で技術を学習、先進的乗用車造りのスタートラインに立てたのだ。

が、もうすこし遡れば、WWⅡ後に戦前型で生産再開のダットサンが、昭和23年/1948年にスマートになったが、中身は変わらず外側だけが新しく、いうなれば衣替え作戦だった。

1948年衣替えして姿だけはスマートになったダットサンDX

当時、ラジオや外国雑誌で外国文化を貪欲にむさぼっていた私は、新しいダットサンを見て、何処かで見たような、と気になり引っ張り出したリーダースダイジェストに、そっくりな車を発見した。
47年型米国クロスレイ、48年型ダットサン、見れば見るほど相似形である。加えて両社のステーションワゴンも相似形だった。

39年から52年迄存続したクロスレイは、米国では珍しい小型車一点張りの会社で、規模が小さいから戦時中軍需転換もなく、戦中も新モデル開発を続行したので、終戦直後の46年にはフラッシュサイドボディーの新型という早業ができたのだ。

1947年登場のクロスレイ2ドアセダン。

東京タワーから虎ノ門手前左の金比羅大神宮の斜め向かいに、今でもある魚勇の隣の日本アメリカン自動車で、独ボルグワルトハンザと共に販売され、少数だが日本を走っていた。

さて日産の新型ダットサンDXは、姿はスマートでも中身は格子型フレームに四輪リーフスプリングというシャシーに、木骨を組み鉄板外皮を貼るという旧態依然の手法で造られていた。

一方、クロスレイは同じ姿でも、モノコックボディーに前輪Wウイッシュボーン。ダットサンの755cc/15馬力に対して、クロスレイは707cc/26.5馬力で、加速性能、操安性、乗り心地など全てが月とスッポン。クロスレイのドアガラスがスライド式に対して、ハンドル巻き上げ式がダットサン唯一の上等部分だった。

多分ライセンス契約など無かったと思うが、クレームが付かなかったのが不思議だった。小さいとはいえ戦勝国の企業らしく、敗戦後進国など眼中になかったのか、訴訟費用を惜しんだのか不明だ。

韓国のコピー時代は終わりに来ているようだが、中国だっていずれ卒業し自主開発デザインの時代になるだろう。我々としてはモ少し大きな気持ちで待つのが大人的行為かもしれない。真似しても良いというものでもないが。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支 離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格 審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち 」「懐かしの車アルバム」等々。

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