世界初の旅客機は爆撃機だった

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人類長年の夢だった空を飛ぶことで、その世界初はアメリカのライト兄弟1903(明治36)年だが、有料で乗客を運ぶ旅客機の初飛行は1919(大正8)年だった。

ライト兄弟以後、各国発明家や研究者などが試行錯誤を繰り返しヨチヨチ歩の時代が続くが、WWⅠで一気に進化する。戦争は科学を急速に進歩させるが、特に兵器が絡むと著しく、飛行機はその典型的な産物だった。

一方、日本での初飛行は1910(明治43)年。昔は陸軍の代々木練兵場と呼んだ今の代々木公園で、フランス留学で飛行免許を取った徳川好敏陸軍大尉が、帰国時に持ち帰ったモーリス・ファルマン機で飛んだのが初めてとされている。

そのファルマンがWWⅠで開発の大型双発爆撃機は、全幅26.47m・自重2.5t/最大重量5tを超えるという、当時としては巨人機で、その名をファルマンF60ゴリアート。ちなみに、ゴリアートの語源はヘブライ語のゴライアス=旧約聖書の巨人兵士。ということで、ゴリアート、ゴーリアット、ゴリアーテ、ゴライアスなど各国で言いまわしは変わるが、巨大さを表現したいときに使われている。

F60ゴリアートは、7.7㎜機関銃を装備、爆弾や魚雷を搭載、時には偵察機で活躍、60機以上がフランスや各国に輸出され、うち一機が日本陸軍にも。

さて、戦争が終わると兵器は無用の長物。戦闘機などは、自家用機や飛行訓練、郵便運搬、はたまた戦闘機乗りの見世物飛行や遊覧飛行などで生き延びるすべもあるが、大きな爆撃機には使い道がなかった。

高い山脈を越えて飛ぶファルマンF60ゴリアートⅣ:アルプスだとすれば目的地はローマか。
飛行船のゴンドラのような客席。柳小枝で編んだ椅子12席。屋根なし操縦席は客席上部に。

そこで賢いフランス人はひらめいた「客を運んでやろう」と…製作中に終戦で行き先を失った軍用2機の大きな胴体に、座席を12個取り付けて一丁上がり。この椅子、写真から籐(とう)製と思っていたら、文献で柳の小枝を編んだものとわかる。

史上初旅客機の初飛行は1919(大正8)年3月22日で、パリからロンドンに飛び立った。こいつは史上初の定期便就航、いうなればエールフランスの源流ともいうべき飛行だった。史上初の旅客飛行に成功すると、路線はすぐにブリュッセル、カサブランカ(モロッコ)、ベルリンと延び、さらに各国他社も加わり、旅客定期航空路が世界に延びるきっかけとなった。ちなみにパリからジブラルタル海峡を越えた最初のカサブランカ行きは、総飛行時間18時間23分だったという。

ファルマンの記念切手:サルムソンWe12型・水冷星形260馬力×2・最高速度時速140㎞・上昇限度4000m・航続距離400㎞/軍用では500馬力×2もあり日本陸軍仕様は310馬力×2。旅客機の260馬力は速度搭載量より信頼性優先ということだろう。

一方、日本の定期便コト初めは、1922(大正11)年と翌年創業の3社。日本航空輸送研究所。東西定期航空會は朝日新聞の新聞輸送だが、本格的路線開拓を目指したのが日本航空㈱…経営は川西航空の川西龍三社長と坂東舜一重役のコンビ。

日本航空は川西製水上機で大阪~別府間を手始めに、九州、関東、朝鮮(当時)の各地、大連、上海と路線を開拓するが、国策の各社合併で新日本航空が誕生し、路線は朝鮮、北京、奉天、台湾、サイパンなどへ伸びていったのである。

いずれにしても、ヒョウタンから駒、爆撃機の変身で生まれたファルマンF60ゴリアートの史上初の旅客機成功が、世界の定期航空界に残した足跡は偉大だった。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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