江原の達っちゃん天国へ旅立つ

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うちのカミさんは女学生の頃、ジェームス・ディーンと江原達怡のファンだったらしい。一緒になって「江原は友達だよ」というと、驚き残念がっていた…なぜ残念なのかは未だ聞いてないが。

東宝の二枚目俳優として鳴らした江原は、慶応で4年後輩らしいが学生時代の付き合いはない。初代面は、私がNDC/日本ダットサンクラブ会員で、彼がNDC芸能の会員で、もう忘れたが何かの自動車のイベントだった…話し上手で気さくなヤツだと思った。

昭和30年代半ば、日本ベストドライバーコンテスト、通称ベスドラと呼ぶ、ビッグイベントが始まった。ブルーバードやコロナが走り出し、夜明け寸前の日本のクルマ時代到来に備えて正しい認識を育てるという趣旨だった。主催が報知新聞で共催が読売新聞、警視庁、JAFと一流の顔ぶれ。スポンサーがグッドイヤータイヤ、パンアメリカン航空、シェル石油と世界の一流、そうそうたる顔ぶれだった。

日本各地の予選に一流ラリーストが集まったのは、優勝副賞のパンアメリカン航空世界一周路線切符とシェル石油の賞金20万円が狙いだった。当時一般人は海外渡航禁止、外貨持ちだし上限500ドルという時代…為替レート1ドル=360円で500ドル=18万円。大卒初任給2万5000円の頃である。

私は第5回の優勝者だが、午前0時神宮絵画館前を出発。箱根から丹沢を走る高速ラリーで、午前10時頃着いた所は読売ランド。一休みの後、そこでジムカーナ。即順位発表で上位5名が本戦出場権を得る。

後日、各地の上位者が小金井自動車試験場で厳しい実地走行試験。午後は1時間で論文を仕上げるので、運転上手だけでは駄目、いうなれば文武両道が要求されるのである。

第1回からの優勝者は、池田英三、江原達怡、田中豊三郎、松井英男、青木英夫の順になる。副賞の行き先は全員ヨーロッパを選んだが、池田と私はロンドンまで行った。通常のロンドン往復飛行料金は51万円だった。

私優勝の翌年役員として小金井に集まった歴代優勝者:左から池田英三、松井英男、田中豊三郎、江原達怡と筆者青木英夫。池田はロンドンのジムラッセル学校でレーシングテクニックを学び後年自動車評論家。松井は赤坂の老舗鰻屋冨貴貫の長男。

さて、優勝者にはお礼奉公が待っている。翌年からベスドラの役員を務めなければならぬ、ということで毎年嫌でも顔を合わせることになり、江原達怡との親しい付き合いが始まった。後年、江原は実業家に転身するが、俳優時代は加山雄三の若大将シリーズの16本が有名で、意地悪な青大将(田中邦衛)と運動部マネージャーとして丁々発止の芝居が面白かった。

若大将シリーズ6本目の作品「エレキの若大将」のポスター。加山雄三、星由里子、田中邦衛の次ぎに江原達怡の名が。

江原は、黒澤明や岡本喜八といった名監督にかわいがられたようで、東宝や大映などで120本もの映画に出演している。印象に残るのは、椿三十郎、森繁久弥の社長満遊記、独立愚連隊、赤ひげ、日本の一番長い日など、どれも日本映画史に残る名作ばかりである。

朝食前にフト見た新聞の死亡欄。おやっと見たら江原達怡らしいと食い入るように眺めたが間違いなかった。

今年、私は米寿を迎えたが、年下の親しい友人がドンドン遠くに去っていく、寂しい限りだが、長く生きすぎるのも考えものと思うようになってきた。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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