片山豊よもやま話-9

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終戦直後から日本ではあらゆる分野で米国至上偏重が続いていた。で、1959/昭和34年、運輸省が自動車販売整備に関する視察団を編成渡米した。そこで全米自動車販売協会=NADAとアメリカン・オートモビル・アソシエーション=AAAがあることを知り、日本にも同じような組織が必要と判断した。

で、自動車販売連合会=自販連は難なく誕生したが、オーナー団体の日本版AAA誕生には紆余曲折が。問題の一つが社団法人日本自動車協会=JAAの存在。戦後の自家用車にガソリン配給という業務が終わったJAAの全国組織を生かせば簡単と考えたら、大きな借財があるとわかったのである。

で、自動車会社と販売会社バックアップで新団体を作り、JAAと合併させ、借財は新団体が処理という手段で、めでたく日本自動車連盟=JAFの誕生を迎えるのだが、ロードサービスだけでスポーツ不要と主張する会社などがあって、その間の調整に片山さんが活躍したと聞いている。で、JAFが誕生すると、初代会長の有力候補が片山豊だったようだが、既に米国行きが決まっていたようで、片山豊JAF会長が実現しなかったのは、我々親派には残念だった。

このJAF誕生には鈴鹿サーキット誕生も絡んでいる。本田宗一郎が「楽しい自動車レースを日本でも見せたい」と建設を始めた鈴鹿サーキットが完成する頃に問題が。実はレース開催に先立ち、ホンダ肝いりの日本自動車スポーツ協会=JASAが誕生した。

「どうせやるなら国際レースを」というにはFIA公認が必要だが、公認と開催権でJAAとの間で問題発生。仕方なくFIAが仲裁に入り、日本のACNはJAA、開催はJASAだから、JAAの権能をJASAに委託して開催することと裁定し、実質JAF公認で第一回日本グランプリ開催が実現した。

資格審査委員用公認競技パドック通行証:胸バッジ・横30㎝ほどの車用プレートの三点セットが支給されてJAF公認競技会ならどこも木戸御免だった。当時スポーツ委員会長は湊謙吾/NDC&SCCN会員。

が問題はさらに…レース出場には競技ライセンスが必要。また主催側役員(技術、コース、計時、資格審査)にも各種ライセンスなどがあり、それを発給するのがACNで、その体勢を早急に整える必要に迫られたのである。

まず、できたばかりのJAFは、会員獲得にレース利用を考え、ライセンス取得前に先ずJAF会員になることを義務付けたところ、ドライバーが反発、大会ボイコットまでに発展…JASAがJAF会費を負担するということでケリが付いた。

ここで頻繁に出てくる複雑な略号の解説をしておこう。先ず自動車スポーツで頂点にあるのが国際自動車連盟/Federation Internationale de l’Automobile=FIA/パリ:その中に国際スポーツ部会、国際技術・旅行・運輸部会がある。

一国一団体でFIAからのスポーツ権能を持つのがAutomobile Club de Nationale=ACNで、現在日本ではJAFが該当する。

日本自動車連盟=JAFには、理事会の下に、スポーツ委員会。その中に法規委員会・資格審査委員会・技術委員会があり、私は資格審査委員会に属していた。そしてレース出場に必要な競技運転者許可証発給もJAFの権能。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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