片山豊よもやま話-8

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さて、オトッツァンとは切っても切れない縁の佐藤健司、通称ケン坊との出会いがいつかは聞いてないが「慶応の文化祭にダットサンを貸せと高校生のケン坊が来たんだよ」といっていた。

また進駐軍の将校や裕福シビリアン達が、自動車クラブを組織→日本スポーツカークラブ/SCCJが誕生したが、朝鮮動乱休戦・日米講和条約締結などで彼等が帰国し休眠状態になると、日本人主導に再組織再出発した時の主導者達の中に、オトッツァンとケン坊もいたから、出会いはどちらが先なのだろうか。

参加者に競技説明をする片山豊/右:左二人目の顔は森繁久弥/左端学帽は法政自動車部員。

SCCJは日本のオートスポーツ発展に寄与…茂原や白井や調布飛行場、船橋オートレース場、はたまた日本版ミレミリア・東京→京都間レースを開催できたのは、天下御免の進駐軍だからこそだった。

その他ジムカーナ、タイムトライアル、ヒルクライムなど、車で遊ぶスポーツを開催、日本人はそれを学んだのである。

さて、正式な自動車レースを開催するには、本部がフランスにある国際自動車連盟=FIAに加盟し、一国一団体に認められるACN=FIA公認団体になる必要がある。現在は1961年創設のJAF、それ以前は1951年創設のJAA=日本自動車協会がACNだった。本田宗一郎の夢「日本で国際レースを」と鈴鹿サーキットの完成が近づき、ハタと困ったのがレース開催権を持つACN問題だった。

昭和30年頃だったと思うが、JAA主催のラリーを開催。神宮外苑から江の島というのだが、写真機持って出掛けたらドライバーズミーティングをやっているのがオトッツァンだった。参加者にはケン坊の顔もあったが、ふと気がついたら森繁久弥がいて、ライレイ2.5が彼の愛車だった。もちろんSCCJ行事にはいつもオトッツァンがいたが、オトッツァンは仕切る人、ケン坊は走る人兼オトッツァンの助手的存在だった。

JAAラリーに集合した神宮外苑前の参加車:右からアストンマーチン、ポルシェ、ナッシュ、MG、スチュードベイカー、ライレイ、戦前の米車/法政大自動車部、ライレイ、カイザー、その後は不鮮明で不明/遠方に絵画館が。

当時日本人の感覚では、進駐軍兵士達は敗戦国を占領する戦勝国の人達、無理難題にも逆らえぬ怖い人達だった。無礼うちに抗議ができぬ江戸時代の武士と町人のようなものである。そんな米国人達に、日本人が入れぬ飛行場などで指図をし、作業をさせるオトッツァンを不思議な人と眺めたものである。立場を逆にして、もし日本が戦勝国だったら、全ての米国人を相手に上から目線で威張っていただろう。何かの才能あれば認める米国人とは不思議な人達と感心したものである。

話は脱線するが、疾風や紫電改などに搭載の世界的名発動機「誉」2000馬力を開発、戦後プリンス自動車を創業、日産副社長になる中川良一から聞いた話しも同様だった。間接的とはいえ私の発動機でたくさんの米兵が戦死したから、いずれ戦犯かと心配していたら米国に来いといわれ、いよいよかと覚悟した。が米国に着くと飛行場に迎えの車、着いた所は立派なホテル。

翌日「発動機開発の講義をせよ」といわれ出頭した部屋には、GM、フォード、P&W、アリソンなど一流発動機会社のトップ技術者達が待っていた…戦後押収した「誉」を見た彼等は、コンパクト高性能に感心して開発者を呼べということだったのだとわかった。それからの数日はVIP待遇で、彼等は生徒が先生に対するような態度なので「米国人って不思議な人達?」と思ったといっていた。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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