自動車にラジオが付いた頃

all コラム・特集 車屋四六

今どき乗用車でラジオや時計がない車なんて珍しいが、昭和30年代ラジオや時計はステイタスな装備品だった。昭和31年、8万円で買った私初の自家用車1942年型シボレーはボロボロながらも、時計もラジオも装備、誇らしげに立つアンテナが自慢だった。42年と云えばWWⅡの最中だが、型式で云えば戦前型。ちなみに米国でカーラジオが登場したのは1927年である。

一方、戦後の日本では、一部金満家の外国車はいざ知らず、ようやく登場した国産乗用車に、ラジオなど付いてるはずもなかった。が、向上心の強い日本人としてはラジオが欲しい。ということで先ず立ち上がったのは、町工場的ラジオ屋だった。

当然、真空管だったが、昭和30年代後半になりトランジスタラジオが登場すると、コンパクトになり扱いやすくなり、普及に拍車を掛けた。

始め不安定だったトラジスタが安定供給され、普及が始まると、当然のように大手メーカーが参入し価格も低下、日本の経済成長に連れ大衆化した車に、標準装備されるようになっていく。

会社名不明だが町工場的メーカー極初期のカタログと思われる。ダイヤル手回しで希望局選局しプッシュボタンを引出し押戻すと記憶し以後ボタンを押せば希望局が出る仕掛けだった

此処で少々脱線するが、トランジスタラジオの歴史は米国ベル研究所で1948年の試作品デモに始まる。次いで52年RCA、54年TIが試作品を発表するが販売には踏み切れなかった。

一方、ウエスタンエレクトリック社が52年トランジスタラジオの特許を取得、2.5万ドルでライセンスを売っていた。それを知ったのが、当時渡米していたソニーの盛田昭夫だった。

盛田はトランジスタの将来性に目を付け、WE社からのライセンス取得に成功するが、貧しい日本経済で外貨の割り当てが困難という障害にぶつかる。するとWE社は後払いでよいと云いながら「商品化は止めた方が良い」と忠告したそうだ…米国の大企業でも難しい商品化、駄目なら金を取るには忍びないが瓢箪から駒が出れば、それもよしとの思惑だったのかもしれない。

そんな思惑通り、製造工程での歩留まりの悪さ、動作不安定にソニーはぶつかるが、それを解決したのが江崎玲於奈のトンネル効果だった。で、生まれたのがエサキダイオードで、55年に世界初トランジスタの量産型ラジオが登場するのである。

これで、カーラジオのトランジスタ化が一気に進展し、大手登場で値段も安く、普及する地盤ができたのである。添付した価格手書きのカタログは、当然町工場的製品のもだろうが、掲載のスカイライン登場が57年、ブルーバード登場が59年だから、すでにトランジスタ製品だと思われる。

そして大手、62年の神戸工業テンオートラジオの最上級モデルは2.5万円で、プッシュボタンが消え電子選局、後席で選局可能、高級ハイファイ電蓄並み音質と自慢している。

いずれにしても、自動車を含めラジオばかりか電子機器の発展にソニーの果たした役割は、世界から賞賛される快挙だと思う。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged