ヒトラーとアウトウニオンとポルシェ

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国際レース優勝は国威高揚に繋がると考えたヒトラーは、贔屓のベンツに加え対抗馬が必要と、ホルヒ、アウディ、ヴァンダラー、DKWの四社合併でアウトウニオンを誕生させた。

次にヒトラーが競争車開発に選んだのは、やはり贔屓のポルシェだった。で、30万ライヒスマルクという巨額の国家援助金を得たポルシェが、期待に応えて開発したのがタイプCだった。

ポルシェには以前から理想の競争車を描いていた。重い発動機を前後車軸間に置けば荷重バランス向上で理想の運動性に近づけるということは、現在のミドシップ型F1の形態に共通する。

が、当時まだ理論が確立していないミドシップ型らしく、タイプC の性能の素晴らしさとは裏腹なデリケートな操安性を乗りこなせたのは、ベルント・ローゼマイヤーだけと云われている。

1966年訪れたアウトバーンはベルリンに入る直前で擂り鉢状のバンクがあったが多分レースの折り返し点だったのだろう。そんな所を疾走するローゼマイヤーのタイプC。

1933年登場のタイプCは45度V型16気筒・4350ccはスーパーチャージャー加給で295馬力/4500回転で、いきなり世界新記録7、国際記録1を樹立してヒトラーを喜ばせた。

その後も記録を更新しながら、34年には4950cc・375馬力・最高速度290㎞。37年のV16は6008cc・520馬力・300㎞を越え、速度記録用の流線型ボディーを載せたタイプCは、アウトバーンで406.3㎞という公道世界最高速度記録を樹立する。もちろんドライバーはローゼマイヤーである。

が「記録は破る為にある」と云われるように、38年ベンツのエース、ルドルフ・カラッチオラが同じフランクフルト・ダルムシュタット間で432.3㎞と更新する。

すると負けん気強いローゼマイヤーは、その日のうちに記録更新と「風が強くなったので日を改めた方がいい」とのカラッチオラの忠告を振り切り、アウトバーンに跳び出していった。が9.2㎞地点で風にあおられ空中に舞い上がり、二度と帰らぬ人となった。その直前の速度は、429㎞だったと伝えられている。

ヒトラーの国威高揚目的は記録樹立もさることながら、レースに勝つことで、ベンツとアウトウニオンは、ドイツ国家を代表する両輪となり、サーキットを荒らしまわったのは御承知の通り。

国家庇護で開発された競争自動車と、民間会社が個々に開発する車では太刀打ちならず、ドイツの快進撃を止められなかった。結果サーキット場では、メルセデスとタイプCの壮絶なシーソーゲームが続いたのである。

そしてタイプCは、34年~37年にかけて、750kgフォーミュラレースにおいて、優勝24回という勝利を獲得した。
後年レーシングカーに革命をもたらすミドシップ型レーサーだが、未完成のタイプCのデリケートな操安性、特に極端なオーバーステアを上手に御せたのが、ローゼマイヤーだったのだ。

GPでトップを走るローゼマイヤーのタイプC、それを追う二台のメルセデス/どちらかがカラッチオラだろう。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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