戦前戦後の車の変遷7

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何処の国でも高度な技術がなければ航空機産業は成り立たない。
そして其処にはトップクラスの頭脳集団が居る。彼等は、自動車などは飛行機やロケットより劣ると上から目線で見ているようだ…で、彼等が自動車産業に転身することは先ず無いようだ。

が、そんな技術屋集団が大挙して自動車産業に移った珍しい国が日本だ。幸か不幸か敗戦という現実がもたらせたものだった。
敗戦の結果登場したGHQは自動車製造さえ禁止したくらいだから、飛行機会社存続などもってのほか、ということで巨大化した飛行機企業は、財閥解体の名の下に細切れにされてしまった。
で、多くの従業員が職を失ったが、世界最高の戦闘機や爆撃機を作った技術者達も例外ではなかった。

ツバサを失った優秀な技術車達は、仕方なく散り散りじりになるが、細切れ会社に残り再建を目指す者、自動車企業に就職する者、それぞれの道を歩み始めた。

話変わって、WWⅡ以前日本の工業水準が世界に劣っていたことは誰もが知っていたことだが、一部の分野で世界をリードしていたのも事実。それが軍艦であり飛行機だった。

大和や武蔵は世界最大高性能強力な戦闘艦だったし、日本空軍機は、後進国だと上から目線の欧米専門家達がア然とする高性能ぶりを発揮した…一例は開戦で日本攻撃隊はマニラを空襲した時。
慌てた米軍がフィルピン周辺の日本空母を血眼で探し回ったのは、航続距離が短かいはずの戦闘機が居たからだった…が、日本海軍のゼロ戦は、台湾からマニラ往復二千㎞あまりを飛行、欧米戦闘機では、新鋭機でも片道ですら難しかったからである。

「英国の新鋭戦闘機も楽な相手だった」とは、黒江さん…黒江保彦は’39年ノモンハン事変でソ連I-16戦闘機撃墜に始まるWWⅡ中の名戦闘機乗り。’42年シンガポールで新鋭二式戦/鍾馗の初戦果。’43映画にもなった加藤隼戦闘隊副隊長/ビルマで大活躍。
戦後は富士航空→航空自衛隊。小松基地指令の時、趣味の磯釣りで高波にさらわれて死去…著名自動車評論家三本和彦は、東京新聞カメラマン時代に黒江操縦のセスナで空撮をしたと話していた。

もし独空軍がゼロ戦を100機持っていたら、バトルofブリテンで英戦闘機/スピッファイヤーの活躍は封じられ、ドイツ軍はドーバー海峡を渡って居ただろうと云う戦史家も居る。
今では見慣れた、落下型燃料タンク、涙滴型型キャノピー、空戦フラップなど、どれも日本人が考え出したアイディアだった…そんな世界初を生み出した技術屋集団が、自動車会社に生き甲斐を見つけ、ほぼゼロに近い所から出発した日本の自動車工業を支えて、戦後の快進撃の一歩がスタートしたのである。

陸軍一式戦闘機・栄950馬力・最大速495㎞・航続1620㎞・7.7㎜機銃x2/二枚プロペラの初期型/三枚型1150馬力後期型は558㎞・航続1900㎞・12.7㎜機銃x2:民間寄付の愛国号/兜=兜町寄贈「一機20万円ほど」と兜町で働く父から聞いた記憶がある。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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