戦前戦後の車の変遷8

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敗戦後の日本再建で{追いつけ追い越せ}による技術進歩、自動車の変遷については既に多くの紹介があるが、それを支えた人達に言及されることは少ない。で、本稿では、元飛行機技術者達に触れてみたいと思う。が、私が知る範囲の人達だから、ごく一部の人達でしかないのが残念である。

まず、戦前戦後、日本社会の悪習は、功績を挙げても個人名は出てこないこと…出てくるのは社長名のみ。結局、発明開発をした個人は、縁の下の力持ちとして、会社繁栄の陰に埋もれてしまう、残念なことである。

執筆中に気が付いたことだが、1953年に外車のノックダウン車登場…日野/ルノー、いすゞ/ヒルマン、日産/オースチン。またスズキ、ダイハツなどには、当時、私の知る飛行機屋が居なかった。で、知る範囲の元飛行機技術者達を紹介しようと思う。

三菱:久保富夫元社長は、100式司令部偵察機開発主任。当時世界最速で北京・福生間を3時間30分/平均700km/hの大記録を樹立。追いつけぬ敵戦闘機相手に悠々と偵察、戦争末期には日本初実用化のターボ装着機も登場させている。

余談になるが、世界に先駆け敵状偵察専用機の発案は日本海軍で、完成した三菱97式司令部偵察機は朝日新聞に貸与され、民間機{神風號}として1937年立川からロンドンまでの、94時間17分56秒という驚異的記録を樹立した。

日本を見下していた欧州の航空技術者達は、ロンドン着陸の神風號の技術の高さに驚いたと聞く:その母体九九司偵・750馬力・最大速度480㎞・7.7㎜機関銃x1。

話しを戻して、三菱:曽根嘉年元社長は、堀越二郎のもとで零式艦上戦闘機/ゼロ戦の開発を担当し、持田勇吉元副社長は金星型・火星型など三菱製著名発動機の製造開発に従事していた技術者で、車の対談取材が終わると、飛行機の雑談をしたものである。

三菱:本庄季男は個人的にも親しくして頂いた。戦前の或日、技術指導のドイツ人技師がモックアップ胴体を見て「オー日本でも四発が出来るようになった」と感心したが「双発です」「ドイツでも四発でなきゃ飛ばない」と云いやがった、と本庄さんは笑っていた。
それが有名な一式陸上攻撃機で、山本五十六連合艦隊司令官が戦死した時の乗機でもある。
戦後「操縦出来ないので試験飛行士の云いなりだったが今度飛行機が造れたら自分で試験飛行するんだ」と1955年頃日本グライダー倶楽部に入会したのが私との出会いだった。

独特の太い胴体から葉巻と愛称された一式陸上攻撃機/写真{海軍の翼}国書刊行会:11型・三菱火星1530馬力x2・最大速度415㎞・航続4167㎞・7.7㎜機関銃x4 20㎜機関砲x1・爆弾800kg/防弾防火不足で燃料タンクが直ぐ発火することから米軍はワンショットライターと呼んでいた。

1966年、富士スピードウエイでインディー500招待レースの時だった。カメラ片手にピットをうろつく本庄さんを発見「車業界ならと思ったがやっぱり見つかった」と苦笑したが、徘徊の謎は翌年GP出場のコルトフォーミュラを見て納得した。
当時欧米では葉巻型全盛時代だったが、コルトは前後車輪間を膨らませてラジェーターを内蔵していた。この形今では常識だが、多分世界初だったと思うが、空力に関しては世界最先端を走っていた飛行機屋ならではの発想と感心したものである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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