2CV誕生秘話

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1948年秋のパリサロンでベールを脱いだシトロエンの新型車の姿に、オリオール大統領・報道・観客がア然とした。米国ジャーナリストが工場所在地にちなみ{ジャベル製缶詰}と呟いたという。
「こんな車誰が買う?」の戸惑いをよそに、蓋を開ければ農民や労働者の支持を得て、42年間も作り付けられることを誰が予測し得ただろうか。それも{醜いアヒルの子}{雨蛙}{犬小屋}など多くのニックネームが生まれるほどの人気者になったのである。

終戦から3年、戦勝国とはいえルノー4CVのように、シトロエン2CVは戦後復興経済にふさわしく開発された大衆車と思ったら、さにあらず。開発は大戦前の36年に始まっていたのである。

そもそもの始まりは、ブーランジェ副社長の発案で、技術屋への開発コンセプトはコウモリ傘の下に四輪を付けた車で①ハットテスト合格②荒れ地を走りカゴ一杯の卵が割れないことだった。
① は大男ブーランジェがシルクハットで座るという条件だ。
こんな単純明快な開発コンセプトは、世界初で最後ではなかろうか。

で、37年プロトタイプ完成、38年に試作300台余完成。テストコースに加え、ノルマンディーの荒野での実走実験…そろそろという時期にドイツ軍のポーランド侵攻でWWⅡ突入、プロジェクトは中止され、試作車は全車破壊廃棄の命令が出された。
「ドイツ野郎に見せてたまるか」だったろう。結果せっかくの傑作がこの世から消えてしまった。が、戦後2CV誕生後しばらくした或日、従業員が工場の壁の異常さに気がつき、壁を壊すと1台の2CVが出てきた。推測すれば39年のパリサロン出品予定が戦争で中止。が、捨てるに忍びなく壁に閉じ込めたのでは。

 

暫くの間、これをシトロエンは唯一の生き残り試作車としていたが、不思議な発見は更に続く。理由は上記と同じだろうが、ノルマンディーの農家の納屋の屋根裏部屋で3台が発見されたのだ。

早速屋根が切り開かれて、フォークリフトで降ろされた3台をパリ郊外のシトロエンの工場に隣接の収蔵庫で見せて貰った。
前照灯一個、ワイパー一本、始動用クランク棒、波板状ボンネットなど思い切り簡略軽量化に徹している。初期は船外機のように運転席から紐で引く始動だったが、女性の爪が割れて電気スターターに変更…ちなみに前照灯1個ワイパー1本はフランスの規則ではOK。

内張なしのドア、後部はバンパーラインまでのキャンバストップ、パイプフレームの簡略シートなど、既に発売された車の基本は完成していた。ただ市販の空冷水平対向二気筒OHV・375ccが、戦前の試作車では水冷だった。此処だけが大きな相違点である。

戦後の48年ブーランジェ社長の除幕で観衆ア然…酷評を受けた2CVは、労働者や農民などの支持で、酷評は好評に代わった。
その後アミ6など上級モデルを投入するも客は2CVに戻る、その繰り返しで実に48年間造り続けられた…で、時代と共に低階層の所得も増えるにつれて2CVも上等にはなったが、基本コンセプトは最後まで変わらず貫き通したのである。

1970年頃パリの知人の奥さんは、豪華なミンクのコートに大きなダイヤの指輪を嵌め2CVのハンドルを握っていた。「パーティーには旦那のロールスロイスで行くから」と云っていた。また昭和30年頃、大学航空部の先輩は「満タンで軽井沢往復」と威張っていた。

上等になった1990年製602ccの2CV 6:メッキが増えドアミラーが付き二色塗装で豪華になったが、基本は全く変わっていない。(写真3枚は全てパリのシトロエン収蔵庫で)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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