ダットサンを捨てツキを捨てた日産

コラム・特集 車屋四六

昭和30年代まで日本乗用車市場ナンバーワンは日産で、追うのがトヨタだった。が、そんな時代も終わり現在トップはトヨタ。20世紀末の日産はすっかり元気を失っていた。

「会社はトップの運で左右される」と気学の先生から聞いたことがある。大企業の社長とは社内の競争に勝ち抜き、銀行株主が認めた人物だから経営手腕も一流のはずである。なのに業績好調な企業が社長交代で右肩下がりになり世間は不思議がる。

社長交代ばかりでなく、運が離れるのは別の要因もあると云う。
ボンクラ頭の私が思うに、日本最古の銘ブランド「ダットサン」を捨てたのがいけなかったと。もっとも捨てるのを決定したのは社長ということになるのだが。

当時社内では、ダットサンというと貨物車を連想と自己嫌悪していたが、欧米とくに米国では「ダットサンさんはどうした」と聞かれるほどに著名ブランドだったのである。

その名の源流は1911年/明治44年、橋本増二郎の快進社で10馬力の乗用車に命名した脱兎号である。もっともローマ字でDATは、脱兎の洒落にも見えるが、実は橋本に資金援助をした田健治郎・青山緑郎・竹内明太郎に感謝を込めた3名の頭文字でもあるのだ。

快進社は31年に大阪の実用自動車に吸収合併のあと、戸畑鋳物自動車部になり、二代目脱兎号だから脱兎の息子=ダットソン号と名付けると、販売店から苦情が…ソンは損に通じるから縁起が悪いと…そこでソンをサン=太陽に換えればいいだろう、と32年に生まれた名がダットサンだった。

ダットソンと姿は同じだが太陽を連想させる日産のエンブレムが付いている第一号車

さて写真はダットサンになったばかりの11型フェートン/1350円。大卒初任給70円、自転車50円の頃である。さすが戸畑鋳物は一流会社、ダットソン時代無愛想な鉄板だったホイールが、プレス加工の洒落た姿になっている。

34年、戸畑鋳物から独立して日産自動車が発足する。このとき藤田男爵未亡人から鮎川義助社長に40万円の提供があったと聞く。鮎川家と片山家は姻戚関係にあり未亡人は片山豊の姉である。
そんな経緯で生まれたダットサンをこよなく愛したのが片山さん。昭和10年慶大卒後日産入社するが、鮎川社長には社長後継者の意図があったようだが、WWⅡが不運を招く。

敗戦後の財閥解体で日産コンツェルンの一員日産自動車は独立し経営は銀行寄りに。で、経営陣と反りが合わない片山さんは経営不振の米国に赴任させられるが、持ち前のアイディアと努力で米国日産を再建し初代社長に就任、フェアレディZを100万台も売り、米国自動車殿堂入り。片山さんの経営手腕を認めたのが米国自動車業界というのも皮肉なものである。

「ブランドとマークは換えてはいけない大切に育てろ」が片山さんの持論だが、日産はダットサンと共に運も捨てたと思ってはいけないのだろうか。

ダットサンと人気スター男装の麗人水之江滝子/松竹歌劇団:戦前→満州→戦後と宣伝畑で活躍した片山さんは松竹の舞台にダットサン10台を・一流女優のCM起用と奇抜なアイディアを続出させた。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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