ミスターKの功績

コラム・特集 車屋四六

片山豊は、1998年10月12日に日産いや日本の片山から世界の片山になる。エジソンやフォード、名だたる偉人が名を連ねる米国自動車殿堂に顕彰された…日本人では本田宗一郎、豊田喜一郎、田口元一に次いで四人目の快挙である。
ちなみに米国では片山の頭文字Kで「ミスターK」が通称。

105才でなくなるまでご意見番だった片山さんは、1935年/昭和10年に慶大を卒業、日産に入社。ダットソンがダットサンになったばかりの頃で、宣伝課に属した片山さんの活躍が始まる。

今のミスフェアレディの源流をたどればダットサンガールにたどりつく。当時女学校生は良家の子女、卒業後働くなどもってのほかの娘達を集めたダットサンガールなのだから話題豊富である。
また昭和の大女優、水之江滝子、高峰三枝子、轟夕紀子、入江たか子などのCM起用など、奇抜なアイディアを続出した。

敗戦後ダットサンで日産が再起すると「儲からなくていい会社にはスポーツカーが必要」と力説誕生したのが憧れの英車MGに似たダットサンスポーツDC-3だった。

戦後再建中の日産の景気づけにと開発したダットサンスポーツDC-3:オーナーは慶大在学中から親子のように片山さんに可愛がられていた佐藤健司/SCCJ。場所は開通直後の横浜新道。

昭和30年頃まで日本を占領した進駐軍軍人は我々には怖い人達だった。そんな頃に生まれた日本スポーツカークラブ/SCCJは、進駐軍将校や高級軍属主体なのに、数少ない日本人会員の片山さんの指示に、怖い米国人が素直に動くのに感心したこともあった。

トンカチで叩いて造るボディーがプレスになったダットサン110が誕生し、戦前からの860cc/26馬力が988cc/34馬力となった211が登場すると、片山さんのスポーツ心に灯が点いた。当時世界一過酷と云われた豪州モービルトライアルの挑戦である。二台の211にドライバーをSCCJからとした企画は、日産(労働組合?)の横槍で実験部からと覆される。

「飛ばすんじゃない」とは片山監督の厳命…世界一流と張り合えばエンジンが壊れるが、世界的悪路と名高い日本のタクシーが鍛えた車の頑丈さで、完走を狙ったのである。

{日本車初優勝}英ロイター通信が世界に発信してダットサンの名は世界に知れ渡る。片山さんの目論見は的中したが、経営陣と反りが合わない片山さんの日本での活躍はこれまでだった。
ひと足先に帰国したドライバーの全国的歓迎お祭り騒ぎをよそに、残務整理を終え帰国した片山さんに居場所はなかった。胡麻を擂らず仕事で成果を上げる月給取りは、日本では嫌われたのだ。

で米国日産への転勤。トヨタも休眠状態の難市場だから、自発的に辞職するだろうとの期待が経営人にはあったと聞く。が持ち前の機知と努力で頑張り、ブルーバードやフェアレディ販売で成績向上すると、片山さんの提言を聞かざるを得なくなり、傑作ブルーバード510が誕生、極めつけフェアレディZの誕生となる。

Zが活躍を始めると欧州の老舗スポーツカーが潰れて、ポルシェとの一騎打ちが始まり、その活躍でスポーツカーとしては異例の短期間に100万台を売り上げた…結果生まれたZの熱烈愛好家、彼等は{Farther of the Z-car}ミスターKと尊敬愛称するようになる。
殿堂入りは米国での活躍を米国人が認めたものである。

さて片山さんは帰国時に、長年つくした女性秘書に愛用の240Zを贈った。それから10年ほどが経ち{まだキレイでしょう}とクリスマスカードが届いた。彼女の写真家の夫が撮った240Zだった。
ダットサンを世界的ブランドに育てた片山さんを、我々親しい後輩達は「オトッツァン」呼んで、尊敬している。

かつての秘書から届いたクリスマスカード:米国在住中の片山さんの愛車フェアレディ240Z

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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