100年を超えるヤナセの足跡

コラム・特集 車屋四六

ヤナセは大正4年/1915年、梁瀬長太郎が創業し、WWⅡ後に梁瀬次郎が輸入車業界のドンに仕上げた。その偉大な経営者が逝ったヤナセは、多くの輸入権を失い普通の輸入車販売店になったが、全国的販売網、長年育てた上流顧客は健在で、後部黄色のステッカー「YANASE」は相変わらずのステイタスシンボルである。

1950年代、初訪問の芝浦ショールームには、キャデラック、ビュイック、ボクスホール(英)が並んでいたが、60年代にはVWが、さらにアウディ、オールズモビル、シボレーなどが加わった。

さて後年ヤナセの屋台骨になるベンツの取り扱い開始はVWと同じ頃の53年だが、それ以前は麻布今井町の黒崎内燃機が独軽自動車「チャンピオン」と共に輸入代理店だった。

ベンツ・ビュイック・VWが並ぶ何処か不明のヤナセ出張所

4台並んだトップ写真は、前からVWビートル、ボクスホール、VW1500、ボルボ…ボルボは61年から74年迄ヤナセが輸入代理店だった。それ以前は日本自動車工業(横浜)で、ヤナセの後は帝人ボルボ、ボルボジャパンへと移っていく。ボクスホールはGM100%の英国子会社だからヤナセ扱いは当然。

写真には無いアウディの取り扱い開始は68年から。またVWビートルと1500が同居していることから、写真は68年以前に撮られたものと判る。

アウディはWWⅡ以前に、ホルヒ・バンデラー・アウディ・DKW、四社合併で誕生したのが四輪マークのアウトウニオンだが、戦後の50年代にベンツが買収、さらにVWに売却のあと、NSUが傘下に入りアウディの社名復活でヤナセ扱いがはじまった。

日本市場はバブルが膨らむにつれ活発化し、輸入車業界も売れ行き好調。それを見た本国メーカーは、販売量増加と利益確保を狙ったのだろう、輸入権を各代理店から取り戻しはじめた。

ヤナセもご多分に洩れず、92年に手塩に掛けたVWを失い、立腹した梁瀬社長は、当時知名度がゼロに近いオペルに白羽の矢を立て、93年より販売を開始した。

50年代、赤坂の東邦モータースが輸入のオペルは、独フォードと共に人気最高だったが、何故か東邦の営業には熱がなく、ふと気が付くと忘れられた存在に。GM関連でいすゞが販売するも客層が異なり芽が出なかった。が、さすが輸入車業界のドン、ヤナセの手に掛かると見る見る育ち始めた。

その後、サーブがGMの傘下に入ると、当然のようにヤナセの扱い車種となる。その後ルノーの販売も開始するが、ヤナセの元気も、このあたりまでだった。

VWとアウディに続き、日本GM設立でGM系全車種の輸入権を失い、日産とルノー提携でルノーの扱いも中止した。手をもがれ足をもがれたヤナセだが、築き上げた上流ユーザーを持つ販売店網は健在で、ヤナセ一族の手から離れ現在は伊藤忠の采配で元気なのが何よりである。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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