1960年代までは元気が良かったライトウエイトスポーツカーが一時期影を潜めていたが、90年代に甦る。影を潜めた原因は米国の安全対策でオープンカー禁止、加えて排気ガス規制などが追い打ちを掛けて、楽しい車が姿を消したのだ。
WWⅡ以前、スポーツカーの本場は欧州、特に英国。戦後になると、MGやトライアンフ、ジャガー、ポルシェなどが米国に渡り、追いかけるように上陸した日本製フェアレディやマツダRX-7の奮闘で英国を含む欧州勢は敗退、淘汰された結果、米国のスポーツカーレースは、日本勢vsポルシェという構図になった。
話変わって60年代をビートルズエイジと呼ぶ。ビートルズ結成が60年8月…最後のアビーロード発売が69年9月だからだ。
同じ年代は日本モータリゼーションの幕開けで、63年の第一回日本グランプリで灯が点いたスポーツ熱が年々上昇し、66年がマイカーブームの始まりだった。
そのころ日本のサーキットには、スカG、コンテッサ、フェアレディ、ベレG、ホンダS600、トヨタS800や2000GT等々。外国勢も元気一杯でトラインフ、MG、ルノーゴーディー、アバルト、ポルシェ356など、多彩な顔ぶれがファンを楽しませていた。
そしてヒーレイやTVR、戦後派で最も活躍したのがロータス。先ずエリートが登場し次ぎがエラン。さらに特徴ある姿のセブンや扁平な姿のヨーロッパも走った。
1982年に死去したコリン・チャップマンは、子供の頃からの車好きで自作の車で草レースやヒルクライムに挑戦しながら、裕福でない仲間達に安くて勝てる車を提供しようと思い立ち、創業したのがロータス社だったのだ。
最初の作品セブンは、キットを自身で組み立てれば取引税なしという思いやりのスポーツカーだった。次いで開発した彼の理想の車がエリートだったが、高くなりすぎて高性能とは裏腹に、売れても赤字でという営業面での失敗作となった。
そして反省…登場したエランは安いが高性能で世界的に傑作と認められた。鈴鹿、船橋、富士など日本でも大活躍。滝進太郎、学習院の英人学生Hボブ、浮谷東次郎などの快走が目に浮かぶ。
安くも機構は斬新、トヨタ2000GTが参考にしたバックボーンフレーム、四輪ディスクブレーキ、安価な量産市販1558ccはDOHC+ツインキャブで105馬力/高性能判は140馬力だった。
軽量FRPボディーの車重は680kgで加速は鋭く、非常識に柔らかなサスはコーナリングで驚異的グリップを生み出していた。
話を戻して、世界の大市場米国での禁止令でロードスターの暗黒時代が訪れるが、レーガン大統領の解禁と時を同じくして渡米したのがマツダのロードスターだった。
89年に登場したマツダは好運の持ち主で、世界的にヒットして暫く途絶えていたライトウエイト・スポーツカーを市場に甦らせた。
もちろんロータスも甦るが、嬉しいことにいすゞのツインカムエンジンを搭載していた。
元気を取り戻したかに目えたが、巨匠チャップマンが死去すると、経営難に陥り、暫くトヨタとの蜜月時代を過ごしたあと、GM傘下に入り、今ではマレーシアのプロトン社傘下で活躍を続けている。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。