片山豊と日本自動車ショー

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世界水準からは遅れた日産車を担いで渡米した片山さんは、努力開拓のすえ、ダットサンの名と日産車の信用をアメリカ市場に定着させ、米国自動車殿堂入り、そして日本では藍綬褒章も受け、なんと105歳で天寿を全うした。

片山さんの一生は、自動車に捧げられたといっても過言ではないが、それは結果からみて日産だけにではなく、日本の自動車産業全体を視野に入れての活動だったようだ。

日比谷公園の野外開催・第1回全日本自動車ショーのポスター。乗用車は数台で数多いのは二輪車。駐車場は自転車ばかりで自家用車は公園周辺の路上駐車だった。

その一つに、自動車ショーがある。敗戦の後遺症が未だ残る昭和20年代中頃、日本の自動車発展のためには自動車ショーが必要と行動を起こした。当時は、日本自動車工業が発展の途についた頃だが、各社懸命努力はするが、行動はバラバラだった。

で、片山さんは、日本自動車産業発展のためには、各社の製品を展示して、誰でもが見られるショーが必要。それは売るためのショーではないというのが片山さんの見解だった。

これに日産はもちろん、民生ディーゼル、三菱ふそう、富士精密、日野、トヨタの広報担当者が賛同し、1951年11月6日に、6社が集まったということで「六日会」が結成された。

ちょうどバス協会が毎年上野でショーを開催していたので、民生と日野からの意見を参考に、同じ場所で毎年ショーの開催をするのが六日会の趣旨で、売るためのショーではない、クルマとは何か、将来何をするのかを、各社の製品を一堂に並べて見てもらおう、が趣旨で1954年に全日本自動車ショーが開催された。

1954/昭和29年、第1回全日本自動車ショー公式ガイドブック:月桂冠を被る男性は片山さんがイメージと伝わる。左手は車輪を回そうとし、右手は止めようとしているのは車にはブレーキが必要なんだと笑っていた。

もっとも、開催にこぎ着けるまでは紆余(うよ)曲折が。反対する会社もありまとめるにはかなりの苦労があったようだ。互いに競争しているのだから、一緒に集まる必要はないという社長もいたそうだ。

幸い当時の日産・浅原源七社長が、自動車工業会会長で「各社社長と話してみよう」と約束してくれたのが嬉しかった。また通産省・浅沼自動車課長が「大賛成と」と応援してくれたのも嬉しかったという。

開催が決まると、昭和10年代に日産で奇抜な宣伝活動で、ダットサンを小型車の代名詞までに育て上げたアイディア宣伝マンの片山さんは、ユニフオームの男では武骨だから女性を、ということで生まれたのが、コンパニオンの始まりとなったようだ。

次ぎに大会のシンボルマークが必要となった。幸い日産宣伝部で片山さんの隣席にいたデザイン担当の坂持龍典画伯に相談してマークも完成した。

おなじみギリシャ神話風の男が木の車輪を回す姿。その男は片山さんのイメージと聞いている。また車輪は、満州時代に馬具屋の店前に100年以上経った車輪を見たのを思い出して、と片山さんはいっていた。

第2回日比谷公園会場の風景:バスばかりが目に付きシ尿車や作業車なども幅をきかせていた。女性はロングストカートの時代で、会場片隅にテント張りのニュー東京で食事と一休み。

このようにして、めでたく開催にこぎ着けた全日本自動車ショーは、その後、我が国の日が昇るような自動車産業の発展と並行して、世界が注目するショーにまで育った。が近頃、自動車環境の変化で、東京モーターショーは来客数が減っている。残念だが、ここでオトッツァンの一言を披露しよう。

「ショーはアクティブな情報発信、誰も自由に自分の考えでジックリと見て欲しい。だから来場者数に一喜一憂する必要はない」と。

尻切れトンボのような終わり方になるが御容赦願いたい。101歳で自動車運転免許を更新し、105歳で人生をまっとうしたオトッツァンの冥福を祈ります。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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