片山豊よもやま話-20

all コラム・特集 車屋四六

「オトッツァン、金持ちの子供みてぇだ」とケン坊が笑った。銀座服部時計店の高級時計展示会でブレゲを買ったという。「素敵なロレックス持っているのになぜブレゲを」と聞くと、「ピンバッジのオマケが欲しかったんだ」と…70万円も払って小さなブレゲの飛行機のピンバッジが欲しかったのである。

ブレゲは時計の進化を100年早めたといわれる天才時計師。最近知られるようになったトゥールビヨン機構の発明者だ。

80から90歳を越えても、運転免許を持ち走り回るオトッツァンも長距離は面倒らしく、遠方の新車試乗会ではケン坊が片山邸経由で出かける。ある日「俺、急用なんでヒデ坊(筆者のこと)代わりにオトッツァンを頼む」で、何度か奥沢の片山邸にも行った。

*浅草橋久月の横山幾久雄、日本橋芳町大橋印房の鈴木晋など皆、筆者のことをヒデ坊と呼ぶが、これは江戸下町の慣習的愛称呼称

そんなノンキな日々が続くある日、日産がルノーの傘下に入り、外国人の社長がやってくるというニュースに我々は驚いた。

「たった5000億円で日産が、ウチでも出せたのに」と、サムスン自動車副社長・鄭埈明が親しい三本和彦に話したという。

97年当時サムスンは、釜山(プサン)で膨大な工業団地造成中。その一角に自動車工場を建設し、日産からの技術資材供与で韓国一の自動車会社を目指していた。

で、日産への支払いが2000億円だったそうだ。その夢は大統領交代ではしごを外されてしまったのだが。当初三本さんは「スバル丸ごと買っては」と提案したが、なぜか日産になったといっていた。

さて、コストカッターと呼ばれるカルロス・ゴーンが日産トップに就任し、大鉈(おおなた)を振るい始めたある日、片山さんは「ゴーンに会ってくる」と出掛けたが「門前払いだったよ」と笑って帰ってきた。

が、しばらくして「来いというから行ってくる」と出かけた。断ってみたものの、あとで片山さんの偉業を知り考え直したのだろう。会談の詳細は不明だが、日産を心から愛する片山さんだから、これまでの経営の失敗点、将来に対する意見など話したのだろう。わかっていることはフェアレディZの復活だった。

北米市場の不振でZを生産中止したとき「売れないといえば簡単、売らないから売れないんだ」と怒っていたが「スポーツカーはもうからなくても自動車会社に必要なんだ」が持論の片山さん、当然ゴーン社長にも持論を展開したのは間違いない。

で、生産中止のZは、2002年によみがえった…さぁ、いよいよオトッツァンの出番とばかりに、ゴーンはアメリカでのオトッツァンの知名度と影響力をフルに生かそうとした。で、渡米してTVコマーシャルにも出演させられた。

が、グリーンカードはあるが、アメリカの法規でCM出演ができないので、体格が似た大きな役者の後ろ姿がMr.Kという設定で「俺はシルエットになったよ」と、笑いながらビデオを見せてくれた。

メイン写真:プサンに建設中のサムスン自動車工場/1997訪問:98年金泳三から金大中に大統領交代で「自動車事業を大宇に、大宇から半導体事業を」の通告で完成工場稼働せず自動車市場進出の夢は挫折した。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged