【車屋四六】尾張町進駐軍時代とトヨペットスーパー

コラム・特集 車屋四六

尾張町で通じる人も少なくなった。私が子供の頃、銀座4丁目をそう呼んでいた。写真トップは昭和20年代末頃である。

尾張町という名の由来は、江戸初期、徳川幕府が江戸前の埋め立てを命じたが、この辺りを担当したのが尾張藩だったから。明治初期からWWⅡ前までは、尾張町と呼んでいた。

昔の人達は、何の目的も当てもなく銀座を歩き回るのを”銀ブラ”と呼んだ。昔の銀座には人を引きつけるハイカラな魅了があったのだ。銀座は、敗戦で進駐軍に占領されたが、近頃では欧米の超一流ブランドのアンテナショップが並び、銀座は二度目の占領を迎えているようだ。

昭和20年代末期になると日本占領の進駐軍も、米軍以外ほとんどが帰国した。が、米軍の治外法権は未だ残り、GI=ジーアイと呼ぶ米兵が銀座や六本木、原宿などを闊歩していた。

写真トップの尾張町の左側は、終戦直後から進駐軍専用ビアホールだったが、やがて日本人向けになったライオンだが、今では大きなビルになり、1階は日産ギャラリーになっている。

日本語が読めない進駐軍は日本中の道路に英語名を付けた。拡大しないと見にくいだろうが、左隅の”必要以外警音器を鳴らすな”築地警察、の看板隣の道路標識には”Zave””GINZA st”とある。

GINZA st=京橋から新橋、いわゆる銀座通り。Zave=日比谷から築地方面。そのどちらにも石畳の軌道を都電が走っていた。

右後方大きなビル松坂屋には”東洋レーヨンの新しい服地の会””ギンザ名物ソルド市”の垂れ幕。新しい服地とは多分ビニロンで、ソルド市はバーゲンの宣伝である。。(写真右:50年後、松阪屋前から服部時計店方面)

3台の車は、前方からトヨペットスーパー、オペルレコルト、フォルクスワーゲン。日本のタクシー市場から外車を追いだしたと云われるトヨペットは、関東自動車製RHKと三菱重工製RHNがあり、写真はRHKである。

トヨペットは、6人乗れる広いキャビン、サイドバルブからOHVになった1453㏄48馬力の力強い?走り、そして日本の悪路に耐える頑丈さが、業者に受けたのである。

オペルレコルトは、今のBMWより人気者で、入荷、即売り切れでプレミアムが付く程。1458㏄は58馬力もあり、最高速度120キロ、100キロを越えられないトヨペットでは月とスッポンだった。

オペルは赤坂田町の東邦モータースが輸入元。右ハンドルも輸入され、その54年型/96万円は、当時の大卒初任給の約100ヵ月分。とてもじゃないがサラリーマンに手が出せる代物ではなかった。

フォルクスワーゲンは、1131㏄24.5馬力の時代。日本市場では新参者で85万円。輸入元は日独自動車。ベンツの輸入元ウエスタン自動車。ボルボの輸入元が西欧自動車。どれもが、ヤナセ系列の会社で、日独自動車は、フォルクスワーゲンをヤナセが本格的に扱うようになる、前処理的会社だったのだろう。

写真トップと同じ頃、松坂屋屋上からの尾張町。服部時計店前は三越。遠方かすかに筑波山。高い建物が少なかった