【車屋四六】チシタリアはイタリア生まれ

コラム・特集 車屋四六

1945年=昭和20年8月15日太平洋戦争の敗戦で、日本人の常識すべてが引っ繰り返ってしまい、心の整理がつかず途方に暮れながら年が変わった。

46年=昭和21年元旦「私は神ではない」と天皇陛下が人間宣言をして、日本は戦後の第一歩を踏み出したのである。
爆撃の後の焼け野原には、飲まず食わずの人達が沢山居たが、そんな人達を元気づけようと、早々に娯楽が復活したのには感心した。

まだ民放がない時代のNHKは、一月に{のど自慢素人音楽会}を・これからは英語の時代と♪カムカムエブリボディーと、歌ではじまる平川唯一の{英会話}を開始・ニュース番組は報道自由化と喜んだが、裏ではGHQに管理されていた。そして戦後一番乗りの輸入洋画{キューリー夫人}が二月に上映された。

五月、{はたちの青春}は幾野道子の日本映画史上初のキスシーンで大評判に・六月東宝ニューフェース募集に400人が応募、男16人、女32人が合格、その中の出世頭が三船敏郎と久家美子だった。

撮影助手希望で応募の三船敏郎は、高峰秀子が黒澤明に印象を伝えたことで俳優になり、5年後に黒澤監督の羅生門でベニス映画祭グランプリ受賞が世界の三船誕生の切っ掛っかけ

昭和21年=西暦46年、イタリアで、ユニークな一台のスポーツカーが登場した…そのチシタリアは、繊維業ピエロ・ドッシモの夢の実現だった。
イタリアは日独伊三国同盟で戦った仲間だから、当然敗戦国なのにスポーツカーを造ってしまう神経には、いくら資産家の夢の実現とはいえ、我々とは異なる資質と感じ入ったものである。

もっともピエロはフットボール選手だが怪我で引退後、繊維業で財をなし、レーシングチームのスポンサーだったから、ランボルギーニのように戦後に、いきなり自動車というのではないが。

46年誕生のチシタリアは小型のクーペで、現在ニューヨーク近代美術館に展示されているというから、二〇世紀に発達した自動車の中から選ばれた中の、傑作一台ということになる。

チシタリアは性能も一流だが、選ばれた最大の理由は、姿の美しさで、それもそのはず、スタイリングが新進気鋭のピニンファリナ、後の伊カロッツェリア界の大御所になる人物である。

ピニンファリナの如何にも流線型という美しい後姿

イタリアが生んだ巨匠ダンテジアコーサの開発だから性能も一流は当然で、チューブラーフレームにフィアットの1089ccは、50馬力から60馬力にチューンされて、最高速が168㎞だが、アバルトのレーシングバージョンでは192㎞に跳ね上がる。

WWⅡ後ナチに協力という理由で、フランスの牢獄に居たポルシェ博士が、獄中からチシタリア開発に知恵を貸したは有名…が、47年トリノ自動車ショーに出品のグランプリカー一台を、息子のポルシェが製作というのが本当のようだ…もっとも制作費が、父ポルシェ博士の保釈金に充てられたという。

チシタリアは、美術館に展示されるほど素敵な車なのに、悲運の持ち主だった…49年会社倒産のあと、アルゼンチンで細々と生産されたが、65年に消えてしまった。
そしてポルシェ作のグランプリマシーンもサーキットを走ることはなく、現在、ポルシェ社に保管されているそうだ。