俗に云う”BC戦争”とは、単にブルーバードとコロナの戦いとだけでは済まされないものがある。敗戦の後遺症から脱出を目指した昭和20年代。先進一流国を目標に”追いつけ追い越せ”の旗印のもと日本中が一丸となって努力したのが昭和30年代だった。
そんな情勢の中、自動車産業も御多分に漏れず努力した中で、BC戦争は自動車業界の発達史でもあり、牽引役でもあったと思う。いずれにしても、当初は圧倒的に日産有利で流れていた。
戦後の小型市場を独占していたのはダットサン。そのダットサン打倒で登場したのが初代コロナ。が、通称だるまコロナは、ダットサンの敵とは成り得なかった。
が、そんなことでトヨタがへこたれるわけもなく、本腰入れてダットサンを仮想敵としたコロナの開発が進んでいた。が、満を持して登場の二代目コロナも不運だった。
ダットサン相手なら勝算はあったろうが、二代目コロナが登場した頃、市場は既にダットサンからブルーバードにバトンタッチされていたのである。昭和34年=1959年のこと。
日本自動車史に名を残す傑作ブルーバードでは、ダットサン相手に開発されたコロナでは勝てるわけがなかった。当然、打倒ブルーバードをコンセプトの三代目のコロナ開発が始まった。
三代目コロナが登場した市場では、またもや仮想敵の初代ブルーバード310型は消えて、410型の時代に移っていた。が、負け続けのコロナに、ようやくツキが回ってきた。
410のデザインは、デザイン界では世界的大御所のピニン・ファリナで、彼が推し進める小型車の居住空間重視の先進レイアウトで仕上げられていた。で、外観は新鋭フィアットと似ていた。
が、先進国なら通用する使い勝手重視のデザインは、発展途上の日本では理解されず、高い実用性とは裏腹に、410は三代目コロナが登場してから、僅か五ヶ月で首位の座から転落した。
二代目コロナは、業界初と思われる後傾したBピラーが珍しく、キャシャで美しいプロポーションも、タクシーで使われたのが不運”コロナは弱い”との評判が不振に追い打ちを掛けた。
が、登場した三代目コロナは、見るからに骨太頑丈に見えた。もちろんボクシースタイルの車体は、タクシー使用にも耐える強度を持ち、CMでは崖から飛んだりして”コロナ強し”を訴えた。
三代目の心臓は1490㏄で70馬力、最高速度140㎞。その頃日本は折からのスポーツブーム、というわけで65年に1600Sが登場する。1587㏄はSUキャブ二連装で90馬力を絞り出し、最高速度も160㎞に跳ね上がった。
そして数ヶ月遅れで、真打ちとばかりに登場したのが、日本で初めてのツードア・ハードトップだった。ハードトップはチューニングされて、サーキットでも大活躍した。
このツードア・ハードトップ登場ということは、日本市場が変わったことの現れだった。日本の乗用車は、自家用、法人用、営業用、十把一絡げ(じっぱひとからげ)で、オールマイティーに作る必要があったが、ハードトップ登場は、パーソナルユース目的に乗用車開発をする時代になった証明でもあった。
いずれにしても、三代目コロナは小型市場の王座に坐ったのだが、その座は安泰ではなく、その後もブルーバードとの熾烈な戦いが続き、シーソーゲームが演じられ、BC戦争なる言葉が生まれる由縁となったのだ。
とにかく三代目コロナでブルーバードを打ち負かし、トップを奪ったが、この最初の勝利を掴んだコロナの写真を見れば判るが、下顎を突きだしたユーモラスな顔をしている。
で、いつの間にか生まれた愛称が”豚ッ鼻のコロナ”。62年になると、このツードア・ハードトップの豚ッ鼻に、1600GTが登場してサーキットを暴れ回る話は、次の機会に。
豚ッ鼻誕生の64年生まれの日本製乗用車を並べると、クラウンエイト、ベレット1600GT、スカイライン2000GT、デボネア、コンテッサ、ファミリア800。自動車ショーは第十一回目で、日本自動車ショーから東京モーターショーへと呼称が変わった。