【車屋四六】MG-TFは古武士的スポーツカー

コラム・特集 車屋四六

1924年発足のMG社のMGは、モーリスガレージの頭文字からとは、既に皆様ご存じのはず。当時のモーリス社は、乗用車のモーリスオックスフォードとモーリスカウリーを製造していた。

そのモーリス社でセールスマネージャーをしていたのがセシル・キンバー。彼が、モーリスにスポーティーなスペシャルボディーを載せて販売をしたのが、MG社の始まり。

そんな商売が軌道に乗り、MG-Mタイプなる二座席スポーツカーをロンドンの自動車ショーに出品したのが28年。こいつがスポーツカーMGの源流なのである。

サイクルフェンダーに砲弾型ヘッドランプ、アルファベット大文字のMを連想するラジェーターグリル、八角形のMGオーナメント、後にMG―Tシリーズの特徴となるパーツが既に顔を揃えていた。

登場したスポーツカーMGは、レースやトライアルで好成績を連発しながらファンを増やしていった。そして35年、後に一世を風靡するMG-Tシリーズのトップバッター、TAの登場となる。トヨタ博物館でも見られるTAは、全長3543x全幅1422㎜。ホイールベース2388mm。四気筒OHV 1292㏄50馬力という仕様。

TAの人気は上々で、WWⅡ開戦で生産が止まる前の37年だけで、年間2850台を売るスポーツカーではベストセラーに成長した。さて戦争で生産は中止したが、開発は続けていたという。

結果、終戦の45年10月にはMG-TCを発表。僅か81台ではあるが、クリスマスまでに市場に送り出すという早業をやってのけた。TCの人気はTAに勝る勢いだったという。

さて、世紀の傑作となる、というよりはスポーツカーの代名詞存在となるMG-TDの新車発表が49年。TCは生産終了までに1万台を生産。2001台のアメリカを筆頭に、合計6592台を輸出、貴重な外貨の稼ぎ手として、イギリス経済復興に寄与したのである。

1949年に登場してMGを世界的に有名にしたMG-TD:目論見通り全生産量の40%近くを対米輸出。写真はシビアな発言で知られたジャーナリスト故金子昭三。芸能人では草笛光子、前田武彦が乗っていた

さて、TDの人気には触れる必要も無かろう。次期モデルのMG-TFにバトンタッチするまでの53年までに、2万9644台を出荷した。

さて、TFが意図したことでは無かろうが、TFは古き良き時代と新しい時代の架け橋となったモデルと云って良いだろう。

TA以来変更無しの伝統部分は、サイズ、シャシー、木骨ボディー。TDからは1250㏄エンジンを。が、TFでは伝統の砲弾型ヘッドランプがフェンダー内に収まり、ラジェーターグリルが後方にスラント、ラジェータキャップは形だけのダミーとなる。

が、低くなったボンネットによる視界向上で取回しが楽になり、誰でも気軽に乗り回せるスポーツカーになった。が、反骨精神旺盛なジョンブルのスポーツカーファンが嘆いたとも聞いている。

当時アメリカでは、大きく強くの時代に入り、御多分に漏れずスポーツカーも強さを求められ、軒並み排気量増大で高性能化の競争が始まっていた。

で、TFも1250㏄では不満が生じ、54年になると1500が登場する。が、今なら誰もが喜ぶクラシックな姿も、時代遅れで理解する者も減り、かつての勢いもなく1万台ほどを売って、54年には、流線形のMGAにバトンタッチしたのである。

TFの終わりは、古武士のような風貌を持つスパルタンなスポーツカー、MG-Tシリ-ズの終わりであった。

1953年登場クラシック姿最後のMG-TF:ラリー終点の江ノ島で、近くのワラ束をパイロン代わりに即席ジムカーナを楽しむ在日米軍人のMG-TF

Tシリーズが一生を終えた54年は昭和29年、日本は未だ敗戦の後遺症を抱え、経済復興に遮二無二になっていた頃である。だから良く街で見かけたTDも、初めは進駐軍兵士か軍属が乗っており、中古が出回るようになっても、オーナーはヤミ成金か芸能人など、金回りのよい連中がほとんどだった。