戦前戦後の車の変遷6

all コラム・特集 車屋四六

敗戦後禁止されていた乗用車生産は1947年、ダットサン、たま電気自動車、トヨペットSAで再スタートを切ったわけだが、翌48年になると、老舗の高速機関工業からオオタ号が復活する。

また51年には、三菱がカイザーフレイザー社のヘンリーJをノックダウンするが売れなかった。憧れの米車なのに売れなかったのは、日本製?価格面?何が理由だったのか今もって判らないが、とにかく時流に乗れなかったのだ。

52年にはプリンス号、また得意の三輪車技術を活かしたダイハツのビー三輪乗用車が誕生する。
この間、戦後復興で遮二無二働いた日本は、思わぬ朝鮮動乱の余波で生まれた特需景気により、復興が軌道に乗り始めていた。

ダイハツ・ビー:全長4080×全幅148×全高1440㎜・WB2400㎜・車重960kg・804cc・18馬力・後輪駆動RR/東京ではタクシーでも走っていた。

それで勢いに乗ったのか、53年になると新顔ラッシュが始まる。先ず先進国との技術提携で、日野ルノー、いすゞヒルマン、日産オースチンが登場。加えて日本生まれの新顔、軽自動車のニッケイタローとオートサンダルが登場する。

55年、日産の名物男片山豊企画のフライングフェザーとスズライトSF/鈴木自動車が登場。57年、ユニークな三輪軽自動車フジキャビンなど、日本経済に即した軽自動車が続々と登場した。

フライングフェザー:企画片山豊・製作住之江製作所/350cc・12.5馬力/4500回転・最高速度60Kph。

更に58年、後のスチール家具大手の岡村製作所から日本初トルコン付きスポーツカー・ミカサ、そして真打ちとばかりに登場したのが、軽自動車の教科書的存在となるスバル360だった。

いずれにしても、それまでの発展の陰には、陽の当たった人、日陰で努力した人達が大勢居て、そんな人達が居たからこそ、現在世界最先端を走る日本製自動車が存在するのだと私は信じている。

とにかく、ボーイングB29の爆撃で焦土と化した日本の工業地帯、そして敗戦、壊滅状態からのスタートで、これほどの短期間で世界の一流になろうとは、世界中が考えてもいなかっただろう。もちろん我々ですら、想像もしなかったことである。

もっとも、一部の政治家や役人は例外で「日本に自動車産業は不要・必要ならアメリカから買えばいい」と、はっきりと言い切ったのは一万田日銀総裁だった。

フジキャビン:東京教文館ビル前/左筆者・右級友小野澤忠夫/右に日野ルノー4CV

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged